※※※樹海
樹海への道のりはヒトが歩けば何ヶ月もかかるような距離だが、天使には意味が無い。例えば、この大陸の端から端までを純粋に翼で飛んでも数分である。時空の風に乗れば一瞬ですむ。
ガブリエルは、だが、今回はなるべく下の様子を見逃さぬよう、ゆっくりと飛んだ。
樹海の広がりが見え始める。
入り口はいくつかあるらしい。しかし、取引のある部族への通路しか進めないという。
彼は、樹海の手前、入り口とおぼしきあたりで何かの塊を見つけた。
舞い降りた天使が見たものは、無残としか言い様のない光景だった。
男女あわせて十数人が切り殺され、うち捨てられたままであった。すでに腐敗が始まり、異臭を放っている。
子供の姿は無い。
ラウルのように無事に逃げ延びていたならいいのだが…。
倒れた人々の中に、オレンジに近い茶色の髪を見つけた。
「………」
ラウルの父親だろうか？
見れば、激しく抵抗したのであろう、他の者よりも多くの傷を負わされていた。
ガブリエルは剣を抜くと、男の頭髪の一房を切り取り、布に包んだ。
改めてあたりを見回す。
５、６台の馬車の一団だったようだ。それらはみな横倒しにされて、積まれていたであろう荷は根こそぎ盗まれている。
車を引いていた馬は盗まれたか、逃げたようだった。
これをあの子供に告げるのか…？
彼はしばらく目を閉じていたが、やがてスイと手をかざし、馬車もろともに火を放った。このままではあまりにも無残に過ぎる。
白銀の炎は馬車と遺骸に燃え移り、非常な勢いで燃え上がった。
轟々と音を立てる炎を見つめていたが、ふと、背後にヒトの気配を感じた。
「……」
ガブリエルは樹海に目を向けた。
数十人ちかい気配がこちらに向かっている。ラウルの言った賊だろう。
いきなり燃え上がった馬車と死体に訝しく思ったのかもしれない。
「…ちょうどいい」
ガブリエルは低く呟く。その唇に薄い笑みが刷かれた。
翼を閉じ、傭兵の姿になると悠然と樹海に向かって歩き始めた。
その頃、置いてけぼりをくった天空城のミシロよろしく、しばらくソウマはベッドで毛布にくるまっていた。
「おじさん、大丈夫かなあ…」
ラウルが呟いて、カーテンを開けようとしたが、先程の化け物を思い出したのか慌てて手を引っ込めた。
耳をすませば、宿を出て旅立つ者と見送る者の声が聞こえてくる。
宿屋は今夜のお客のために食事の下ごしらえや部屋の掃除など忙しくなるのだろう。
ラウルはテーブルの上の、一口パンのような焼き菓子をつまむと椅子に腰掛けた。
「…なあ、どうして天使様が町に来てるんだよ？」
ラウルが問うのに、ソウマは毛布からちょっと顔を覗かせて、
「…ガブリエル様は、僕が捕まっていた所を調べてるんだと思う」
「ガブリエル様っていうのか、あのひと？」
ソウマは頷き、ベッドから起き上がるとポツポツと今までのことを話して聞かせた。
自分を捕らえていた者が捨て置けない存在であるらしいこと。本当はガブリエル一人で来るはずだったのが、一緒に連れてきてもらえたこと…。
ラウルは半ば呆然として聞いていたが、おもむろに妙に納得したように頷いた。
「どうりで、あのひとが傍にいないと不安そうにするはずだよな…」
「…ごめんね…。やっぱりまだ、他の人は怖くて…。でも一番怖いのは…」
うなだれたソウマの頭を、兄貴分らしくラウルは撫でてやった。
「…あのひとが帰ってこなくなることだろ？」
「うん。…でも、ガブリエル様はすごく強いんだって。ローティス様が言ってた」
まるで、自分に言い聞かせるように言ったソウマを見つめていたラウルは、何となくこの小さい天使の思っていることがわかった。
自分も置いていかれることの痛みを、辛さを味わったばかりだからだ。
両親が自分を生かすために逃げろと言ってくれたのは解る。けれども…。
置いていかれるということは、自分が必要とされていないということのようで、哀しい。
自分にも何かできたのではないか…？
この小さな天使は、ガブリエルに助けられるまで何度となく味わわされたのだろう。
だから、あんな高い所から飛び降りてでも、彼に着いて行きたかったのか…
ラウルがそう言うと、小さい天使は恥ずかしそうに首を振った。
「…ガブリエル様には言わないでね…。ホントはね、お傍にいたかっただけ…」
「……５歳だもんな、おまえ」
ラウルはそう呟いて納得した。
そして、
「坊やたち、おやつですよ」
扉がノックされ、女将の声が廊下からした。
二人の子供は顔を見合わせた。
ガブリエルは樹海に入った途端、屈強な男たちに囲まれた。
そのかず十数人。まだ他にも森の中に潜んでいるようだ。
「…」
「兄さん、アレを燃やしたのはあんたかい」
「そうだ」
「困るな、勝手なことをされちゃあ…」
「勝手？死者を弔うのは当然と思うが？」
じりじりと間合いを詰めているにも関わらず、泰然と構えている若い男に一人が痺れを切らしたようだった。
「あれは見せしめなんだよ！てめえもそのお綺麗な面に見せしめの印をつけてやろうか！」
いきなり剣を振りかぶってきた一人をひらりとかわし、
「俺の顔の心配などしてくれなくていい」
男の首に手刀を見舞った。
賊は声もあげず、どうと倒れる。
「…っ！」
「てめえ…っ！」
木々の間からわらわらと賊が現れた。
普通なら、ここでこの場は落着するはずだった。
しかし、哀しいかな、彼らはこの男の正体を知らなかった。
あの城国の数ある騎士団の中でも精鋭中の精鋭、アクラ騎士団団長、総帥の称号を持ち、かつ、その永きに渡り常に傍らにあって補佐する副官にさえ予測不可能な戦いをする男である。
つまり、無茶苦茶という意味だ。
美しいたおやかな天使などと思ってなめてかかれば、命は無い。
ガブリエルの背後にいた巨漢が大刀を抜きざま彼の胴を切り払った。しかし、すでに相手の姿は無い。気づいた時には高く飛び上がったガブリエルの蹴りが顔面に入り、巨漢は鼻血を撒き散らして仰向けに倒れこんだ。同時に、巨漢の向かいにいた男と右側にいた男は、不運にもガブリエルの蹴りの範囲にいたために同じく顔を蹴られて倒された。
「くらえっ！」
地に降り立ったガブリエルの脇めがけて突き出された剣は、いとも簡単に素手で払われ、前と後ろから同時に突き出された剣は身をよじってかわされた。
賊は同士討ちのかたちで双方、胸に剣を突き立てたまま斃れた。
「やろうっ！」
左右から４人が剣を振りかざし襲い掛かる。すっと身体を沈めたガブリエルの足が、一人の足を蹴り払う。態勢を崩した男は、傍にいた仲間に剣を振り下ろす形で倒れ、思わぬ斬撃を受けた方は血をしぶいてたおれこんだ。
足を払った直後、彼は低い姿勢のまま一人の懐に飛び込んで腹に左の拳を食い込ませ、もう一人の剣を右手で叩き落した。
がら空きになったガブリエルの背に剣が繰り出されるが、武器を失った賊の手首を捻り位置を逆転させる。
「ふぐっ！」
男は仲間の剣を受け、血を吐いてくず折れた。
仲間を貫いたその衝撃にたたらを踏んだ男の喉元へ、いつの間にか抜かれたガブリエルの剣先がひたと突きつけられていた。
あと１センチも動けば、剣先は男の首の静脈を突き刺す。
ここまで、わずか数分。
「………」
「な…なん…」
ガブリエルを囲んでいた男たちは、ぞっと怖気をふるって思わず後退さる。
いつ剣を抜いたのか誰もわからなかった。
早業もいいところだ。惑わされているのではないのか。しかも、今の今まで相手は素手だった。息も乱していない。そもそも、素手で剣を払うとは何事だ。
その男が剣を抜いた今、果たしてこの人数でやれるのか…？
「つ…強え…」
賊の一人が思わず呟いた。
呆然としている賊に、ガブリエルは静かな声音で言った。
「お褒めにあずかり恐れ入る。少々、聞きたいことがあるのだが？」
多勢に無勢は、この男には通用しなかった。
※※※樹海の奥
鬱蒼とした木々の間に、かろうじて馬車一台分の幅の道が樹海の奥へと続いている。
濃い緑の匂いが風と共に吹き抜けていった。
下生えの様々な草は青々と茂り、花を咲かせていたり、ヒトの太腿の高さまで伸びているものもある。多種多様の木々と、それに巻きついた蔦もさまざまな種類があるようで、この森の豊かさが窺える。
しかし、そんなことを暢気に観察しているのはガブリエルだけであった。
その道を奥へと進む一団は、ガブリエルの左右後方を囲むように…というより、あまり近づきすぎぬよう、なるべく彼から遠ざかりたいという気持ちをありありと顔に浮かべ、ぞろぞろ歩いていた。
あっという間に十人近い仲間を倒された賊は、これ以上やっても自分たちの仲間が減るだけだと悟ったらしく、自分たちの頭に合わせるとだけ言ってガブリエルを樹海の奥に案内した。
おかしなことに、誰も彼の前に立って歩こうとはしない。横から「この道だ」とか「真っ直ぐだ」とか言うだけだ。
訝しく思ったガブリエルは、至極真面目な顔で言った。
「…心配しなくとも、さっきの男のように後ろから切りつけるような、卑怯なことはしないぞ？切るときは正面から行ってやるから安心しろ」
生き残った二十人ばかりの賊が、一斉に一歩退いた。
―― 一体、この男のどこの、なにを、安心しろと言うのか。
先刻、一人の阿呆が、仲間が止めるのも聞かずにガブリエルに背後から切りかかった。
見えていたとしか思えない動きでひょいと避けざま、拳を軽く振った――ように見えた――その瞬間、賊はまるで巨大な手に払われたかのように後ろに吹っ飛ばされた。
血だらけの顔は、鼻が陥没している。
声も無い男たちが転がった仲間を呆然と見下ろす中、静かな声が届いた。
「かかってくるなら正面から来い。そうすれば、痛みを感じぬ間に首を刎ねてやる」
何の感情も読み取れない表情で淡々と告げる男に、今度こそ彼らは恐怖を感じた。
この男ならやりかねない。ここにいる全員の首が、奥に向かって転々と落ちている様を容易に想像できるところが恐ろしい。
この男には近づいてはならない。
――結果、ガブリエルの手が届かないよう間合いを取り、左右後方のみ固まったというわけだった。とはいえ、男の利き腕――つまり、右手側は大きく空間が開いていたのは仕方なかったろう。
尤も、ガブリエルにとっては左右だろうが後方だろうが、あまり意味は無かったのだが。
ここだと言って案内された集落は、だが、異様な風景が広がっていた。
賊の仲間らしき男たちがあちこちに倒れている。息のあるものはいそうにない。
「なっ…なんだこりゃ…！」
「おいっ、お頭は…？」
賊は目の前の光景に仰天して、ガブリエルをそっちのけで走っていく。
（これは、また…）
ガブリエルはあたりを見回した。
何者かに襲撃された後らしい。
確かに集落だが、元の住人はすでにいないようだった。
村の入り口は広場となっており、見張り小屋らしきものが２つ。それを更に進むと今は壊された高い柵があり、両脇には物見やぐらのような高楼。その奥が村人のすむ居住区となっていたようだ。
前方でわっと声が上がった。
小屋の影から数十人の男たちが現れた。ざっと見て五、六十人はいる。
皆、体中に刺青を入れ、見事な装飾の腕輪や首飾りをつけ、膝丈の精緻な刺繍が施された腰布を鮮やかな模様の帯で巻いている。
ガブリエルはふと、地上のある部族の民族衣装を思い出した。
どうやら樹海の者が賊を襲撃したようだ。
その刺青の男たちの中でも、ひときわ大柄な男がひょいと何かを投げつけた。
ごろんと転がったのは、人間の男の首だ。
「ひっ…」
「か、かしらっ！」
「わ…わ…」
よりどころとなる頭が倒れたいま、賊は有象無象の集まりでしかない。
身を翻して脱兎のごとく逃げ出した。
首を投げつけた男がくい、と顎をしゃくる。刺青の男たちは見事な身のこなしで賊を追った。
一人も逃すな、ということだろう。
「……」
ガブリエルは改めてその大男を見た。
男らしい整った相貌、蒼く光る銀髪に褐色の肌。その肌色に映える金と銀の刺青が華のようだった。
鍛え上げられた体躯は、一切の無駄を排除したように引き締まっている。だが、この男には不思議と華やぎがあった。
繊細にして大胆なデザインの刺青は、力強さと華やかさを合わせ持つこの男によく似合っている。
しかし、驚いたのはその瞳だ。虹彩までもが銀色だった。よく見れば多少青みが強いか。
「…お前もあれらの仲間か？」
「いいや」
しげしげと観察していた男に問われ、ガブリエルは首を振った。
その瞬間、男の身体がフワリと浮いた。――そうとしか見えなかった。
その巨体が嘘のような動きでガブリエルに襲い掛かってきた。気づいたときにはもう目の前だ。
「…！」
ガッキと剣がぶつかった。
銀の瞳が、驚きと感嘆にきらっと光る。重低音の声が笑いを含んだように問うた。
「…やるな。…あの馬車と死体を燃やしたのはお前か？」
「そうだ」
「なにゆえ彼奴等が来る前に逃げなかった？」
「俺のほうに用があったからだ」
双方息も乱さず、会話を聞いただけならば戦っているとはわからなかったろう。しかし、ぎりぎりと剣が軋み、力の拮抗を伝えてくる。かなりの使い手だ。これは本当に人間か？
そして、ガブリエルにして敵か味方か判断つきかねた。なぜかならば、闘気はあっても殺気がないからだ。
ふいに、男はすいと剣を引き、鞘に収めた。
「…？」
ガブリエルも剣を鞘に収めながら、男に問うような目を向けた。
「…来るのが遅れたために、あの者たちを無残にも放置することになった。…お前には詫びねばならん。とんだことに巻き込んでしまった」
軽く頭を下げた男に、更に驚きながら彼は首を振って応えた。
「…殺された一団のことを言っているのか？樹海の者は信義に篤いと見える。…しかし、詫びなどは無用だ。俺も無関係とは言えん。あの一団にいた子供を拾ったからな」
「…拾った…？」
「町へ逃れて来たところに出くわした。今は息子と一緒に宿で留守番をしている」
「息子？お前のか…？」
「そうだ」
正確には違うが、いちいち説明するのも面倒だった。
何に驚いたのか男は瞠目し、しげしげとガブリエルを見つめた。
彼に息子がいるということが意外だったのだろうか？――しかし、それは初対面の男に持つ印象ではないだろうと思うのだが？
そこで、ふと思い当たる。
「おぬし、まさか俺が子供を攫っていると思ったのか？」
「いや。そうではない。ちょっとショックだっただけだ。…どういうことだ？子供がいるなど聞いておらんぞ！」
銀髪の男は否定して、振り返りながら叫んだ。
「…？」
ショック？一体、なんの話だ？
ガブリエルは怪訝そうに、男の視線の先を追った。
「わしだって今日はじめて知ったさ」
小屋の後ろから苦笑しながら現れた白い衣の老人を見て、彼にしては珍しいことに、あんぐりと口をあいた。
「…なにをやってるんだ…ヨウ？」
ソウマの翼を直した老医師が立っていた。
