※※※隠された事実
夕刻、執行官サナムは珍しい客人を執務室に迎えていた。
「どうぞ、ミカエル様」
「ありがとうございます」
サナムの補佐官でもある彼の妻がお茶を出してくれる。
それへ礼を言い、一口飲んだ。
さすがに女性がいる執務室というのは、調度も華やかになるようで、全体的に柔らかな印象を受けた。
なかなか好感の持てる部屋だ。
「…で、今日はいかがなされましたか？何か、私は監視のお気に召さぬことでも…？」
サナムが少し不安そうに聞いた。
それは仕方なかったろう。突然訪れた人物が、あろうことかセラヒム監視筆頭補佐官であるミカエルだったのだから。
「いいえ。そうではありません。…実は、今日は監視から奥様への見舞いをことずかりまして」
言いながら、その品をテーブルに乗せる。
それは、男の子を模った小さなガラス細工の置物だった。
「まあ！可愛らしい！」
「これ、リイヤ！」
思わず声をあげてしまった妻を軽くたしなめ、恥ずかしそうにミカエルに頭を下げる。
「……」
にっこりと笑ったミカエルは、
「奥様に気に入っていただければ、監視もお喜びになるでしょう。…あの一件では監視も大変残念がっておられましたから…」
さりげなく、話を持っていった。
二人を…特に婦人を観察する。
サナムのほうは少し寂しげに笑って、首を振った。
「いえ…もう、昔のことです…。妻も、最近になってようやく、こうして私の補佐として勤めてくれるようになりましたし…」
「わたくし、あの子を抱いてやれませんでしたけれど…でも…あの子も今ごろは、どこか幸せな所へ生まれ変わっていますわ。きっと。そう、信じてます」
どこか悄然としたような笑みを浮かべた婦人に、ミカエルは小さく頷いた。
「お一人で、お辛かったでしょう…」
「ああ、でも、あの時は乳母がいてくれましたから…一人でだったら、きっと耐えられませんでしたわ」
「そうですか…。お二人には辛いことを思い出させてしまいました…」
「あ、いいえ。…監視にお気を遣わせてしまいまして、申し訳なく思います」
ミカエルの言葉に、サナムは恐縮したように深々と頭を下げる。
「監視には、お二人がお元気になってきたと申し伝えておきましょう。サナム殿にはこれからも政を支えていただかなくてはなりませんし、奥様には、サナム殿を支えていただかなくては」
そうやわらかく笑って、ゆっくりと立ち上がると、ミカエルは長居を詫び、サナムの執務室を出て行った。
一旦、セラヒムのもとへ戻り、報告をする。
「乳母…」
「サナム殿の奥方を幼少の頃から世話してきた老婆のようです」
「……ああ…何だか、切ないね…」
セラヒムの憂いを含んだ呟きに、ミカエルは哀しげな微笑を向け、そうですね、と呟くと一礼して静かに辞した。
ガブリエルは黙って同僚の話を聞いていた。
ミカエルが彼の執務室を訪ねたのは夜も更けた頃だった。どうやら、子供が寝てしまった時間を見計らって来たようだ。
執務室のソファにガブリエルとローティス、その向かいにミカエルが座っている。
ミカエルは溜息をつくように話し始めた。
「お前の懸念は当たっていたよ、ガブリエル…あの老婆は、自分の主人が生んだ子供を殺せなかったんだ…」
リイヤの乳母はあの件の後、城を辞して今はひっそりと街で暮らしていた。
ミカエルが訪ねて行き、サナム夫婦の様子を伝えてやると嬉しそうに笑った。
そして、あの日、リイヤの子供をどこへ連れて行ったのかと単刀直入に聞いた。
初めは知らぬの一点張りだったが、ガブリエルが街の裏通りで子供を拾ったこと。その子供が闇の者の手に落ち、残酷な虐待を受けていたこと、そして、〝黒〟を纏うものであったことを話すに及んで、老婆は蒼白になって震え始めた。
「闇の者に…？捕らわれていたと…？」
「人の手から手へ引き渡されるうちに売られたようだ。ガブリエルが言うには、拾ったとき、片方の翼が折られていたそうだ。…飛んで逃げぬようにな…まだ、身体を支えて飛ぶことなど適わぬほど小さな翼だというのに…」
老婆は顔を覆って泣いた。
〝黒〟を纏うものは異端視される。ましてや、とりあげた主人の子供は、漆黒の髪と漆黒の翼を持ち、褐色の肌をしていたのだから…。
「…お嬢様は、お子様のお姿など知りませぬ…どうしても、お見せできなかった…」
「――。すべてはそなたの独断であったということか？」
老婆は頷いた。
考えあぐねた末、赤ん坊に術をかけ、翼を封じ込んで信頼できそうな人間に預けたという。
人間には有効な術も、何かのきっかけで綻んでくるし、ましてや、強力な術でもなければ闇の者にはすぐにそれと知れよう。
そして、城下に住むすべての人間が信頼できるとは限らないということも、念頭においておかねばならなかったのだ。
認識が甘すぎた。それはもう今更言っても始まらないことだが。
ミカエルは溜息をついた。
あの日、小さくガブリエルが呟いた言葉がよみがえる。
いたたまれない…と。
だからこそ、あの男は自分が手を下すのは闇の者だけだと言い切ったのだ。
ミカエルは老女から最初に子供を預けた人間のことを聞き出し、城に戻ったのだった。
話し終えたミカエルはお茶を一口飲んだ。
「嫌な役目をさせてすまなかったな、ミカエル」
「いや。これは本来なら俺が片付けなくてはならん問題だったはずだ」
「………」
比較的落ち着いている二人とは対照的に、初めて聞かされる事実に、ローティスはしばし呆然としていた。
その補佐官の様子を見て、ガブリエルは苦笑してたしなめる。
「ローティス、頼むからあの子供の前でそんな顔はするなよ？」
「わ、わかっております。…しかし、どうにも納得がいかないというか、いたたまれないというか…」
「まあ、それは、誰しもそう思うだろうな…ま、今日はここまでにしよう。俺も自室に戻る」
そうして、３人の天使はそれぞれの部屋へと引き上げていった。
※※※当惑
翌朝。
「ちょちょちょちょっと待ってください、ガブリエル様！まさか、ご自分で行かれるとか仰るんじゃないでしょうね！そういうのって、普通、補佐官が行きますよね？！」
ローティスの焦りまくった声が執務室から聞こえてきた。
今日もいい天気らしい。空は雲ひとつ無く、蒼く澄み切っていた。
こんな日に飛ぶのはさぞ気持ちがいいだろう。
「いや？そんなことはない。俺は自分の目で確かめて来たいだけだ。お前はいつもどおり、留守を頼む。あまり大きな声を出すと子供が起きるぞ」
淡々と告げて、さっさとテラスへと向かった主を追いかけたローティスは、その勢いのまま、ガブリエルの前に回りこんだ。
「いや、ちょっと、お待ち下さいってば！」
「…何だ？」
怪訝そうな顔の主を見て、補佐官は深いため息をついた。そして、
「ご自分で確かめたいと仰るお気持ちはよくわかります。滅多なことではお怪我などされないくらいお強いのもそれはもうこのローティスがよく存じ上げております。が！しかし！それとこれとは話が全然別なのです！執行官の執務室に執行官がいらっしゃらないということがどれほどご自分のお立場を悪くなさっているかお分かりなのですか！そうでなくとも貴方は何かと監視からあれこれ嫌がらせを受けてらっしゃるのにこの上また無断で街に出歩かれたことがばれればどうなるかくらいお分かりでしょう！」
一気にここまで喋り、さすがに少し息を切らしていた。
ガブリエルも唖然として彼を見つめていたが、
「…お前、よく舌がまわるな」
おっとりと言われて、ローティスは思わず涙を浮かべてしまった。
ガブリエルは嫌そうな顔をした。
「いい年した男が泣くなよ。お前の言いたいことはよくわかってるよ。けどな、俺はあのアタマでっかちが嫌いなんだ。」
「そういうことではアリマッセン！」
「わかったわかった。小言は帰ってから聞くよ。とにかく、子供が起きる前に行きたいんだ、俺は」
ガブリエルは、胸ぐらを掴んだローティスの手を引き剥がしてテラスへ出ると、そのまま空へ舞い上がった。
「ガブリエル様、待って…！」
「あっ」
ローティスの脇をすり抜けて、子供が飛び出してきた。
テラスの端まで走ると、その勢いのまま手摺を飛び越え「えい」と飛び降りた。
それを追って白猫もダイブする。
「ぅわ―――っ！ソウマ！ミシロ！」
仰天して大絶叫を放ったローティスは、大慌てで翼を広げて飛び立った。
が、そのとき、バサリと羽音がして、両脇に子供と猫を抱えたガブリエルが壮絶な仏頂面で現れた。
こっぴどく叱られた子供は、しゅんとうなだれてソファに小さくなっている。
白猫も同じようにしゅんとしているのが何か可笑しい。
ローティスが苦笑しながら主を止めに入った。
「まあまあ、ガブリエル様、そんなに怒らずとも…」
「怒るに決まってるだろう！ようやく翼の怪我も治りかけてきたところで、しかもあの高さから飛び降りてどうなると思ってるんだ！挽き肉になりたいのか！」
珍しく声を荒げたガブリエルを、ローティスはしげしげと眺めた。
おもむろに子供に向き直る。
「…ソウマ、どうしてガブリエル様を追いかけたんだい？」
「ローティス…」
何か言いかける主を制しておいて、ローティスは子供に優しく微笑みかける。
ガブリエルはどさりとソファに腰を落とした。
「ん？」
「……」
涙でいっぱいになった目で、ローティスを見、こわごわとガブリエルを見る。
「ソウマ、怒鳴ったりしないから、言ってごらん？」
「だって…」
子供がうつむいたとき、ぱたぱたと涙がこぼれ落ちた。
「…ガブリエル様は、あそこに行くんでしょう…？お館さまは…とても、怖い…です。ガブリエル様は、強いって、皆…言うけど、でも、もしもお館さまの方が強かったら…？ガブリエル様が、帰れなく、なったら…」
「……………」
ローティスは目を丸くして聞いていたが、やがて、ふっと笑った。
「そうか。君は、ガブリエル様が心配だったんだね」
そう言うと、子供はコクリと頷いた。
唖然としたのはガブリエルのほうだ。
こんな小さな子供に心配されるとは思ってもみなかった彼は、何ともいえない顔をしていた。
尻がむずむずする。
そんな主を尻目に、ローティスはにこにこ笑いながら子供に言った。
「ソウマ、ガブリエル様は本当にお強いんだよ。君の想像をはるかに超えるくらいにはね。でも、この仕事は確かに、君に関わることだ。君の人生を君自身が受け入れることができなければ、ガブリエル様が街へ降りる意味も無い。君は、どんな辛いことを知っても、きちんとそれを自分のこととして受け止める勇気があるかい？言っておくけど、生半可な勇気では、とうてい耐えられないような真実かもしれないよ？」
ガブリエルが、話が不吉な方向へ流れていることに気づいたときには、
「はい！ローティス様。僕は、大丈夫です」
と子供の決意みなぎる返事が聞こえ、
「よし、さすがは男の子だね！じゃあ、いいかい、ソウマ。街へ降りたら、ガブリエル様のことは〝お父さん〟って呼ぶんだよ？ "ガブリエル様" なんて呼んだら、この城の者だとばれてしまうからね！」
ローティスの朗らかな笑い声が響いた。
「―――はあっ？ちょっとまて！何でそうなるんだ！」
慌てて割って入ったガブリエルに、ローティスが不思議そうに言った。
「どこからどう見たって親子でしょう。まさか、お兄さんなんて呼ばせるつもりではないでしょうね？」
「違う！そうではなく…」
「もう。往生際の悪い。この子の将来のためにも、立派なお父さんでお願いしますね？」
「………」
ガブリエルは匙を放り投げた。
