※※※記憶
セラヒムはテラスに立って、遠く樹海が広がる大地を眺めていた。
天空城の最上階に位置するため、真下にある街はほとんど見えないのだ。
ぼんやりと考える。
（ガブリエルも執行官らしくなった…。
彼と始めてあったのはいつだったかな…？ああ…あれからもう、ずいぶん経つんだな…）
※
黒髪の天使が数々の武勲をあげ、その功績を認めた監視役会議は、ガブリエルに固有の紋章を授けることを決定した。
その彼が、このほどケルビムの執行幹部に抜擢されたという。
そして、着任早々、ケルビムは自分の補佐になるような者を地上で探してくるよう彼に命じたと。
（彼らしい嫌がらせだな）
セラヒムは、ミカエルからその話を聞いたとき心中で呟いた。
"黒"を纏うものがここまで来ることは、なみなみならぬ努力と実力と強運あってのことだ。引き寄せた運さえ、彼の実力といえよう。
（どんな男なんだろう？）
セラヒムは興味を抱いた。
「監視、お聞きになりましたか？あの黒髪の執行官が地上から優秀な人材を連れてきたそうですよ」
ミカエルは書類を手渡しながら、面白そうにセラヒムに告げた。
しかし、それを聞くや否や、セラヒムは椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「何だって？ダメだ！やめさせるんだ！」
ついぞ見たこともない上司の剣幕に、ミカエルの方が動揺した。
「か、監視…！？」
「どんな関係の人物か知らないが、彼はきっと後悔するよ！」
執務室を飛び出したセラヒムを追って、ミカエルも駆け出した。
――しかし。
既に、監視役補佐官の任命式は終えられて、ケルビムの執務室から出てきた地上の女性は人形のように空ろな存在となっていた。
「…ああ…」
セラヒムの唇から嘆息とも呟きともつかない吐息が吐き出された。
「監視…これは、一体…」
「…ミカエル、こっちへ」
セラヒムは右腕である部下の手を引っ張って柱の影に隠れると、低い声で告げた。
「あの儀式はね、監視役の操り人形にするためのものだよ」
「なんですと！？」
「しっ！声が高い！ボクは、あの儀式が嫌いだから執行していない。けれど、いいかい、ミカエル。ボクとサリマ以外の監視役は補佐官をすべてあのように変えてしまってるんだ」
わかるだろう？と問われて、ミカエルは他の監視役の執務室を訪れたときのことを思い出す。
どこへ赴いても気色の悪い、背中がむずむずするような違和感に襲われたものだ。
あの違和感がコレにあったとは思いもよらなかった。
「…彼は、大丈夫だろうか…？」
セラヒムの言う〝彼〟とはガブリエルのことだろう。
珍しいこともあるものだと思った。この監視が特定の人物にここまで興味を示すことはついぞなかったからだ。
「…あ！」
「え？」
セラヒムがふと上げた声に、思わず問いかえす。
主の視線を追っても、しずしずとした補佐官たちの行列があるだけで、ミカエルにはセラヒムの目にしたものがなんであったのか、見つけることはできなかった。
急ぎ足で取って返した主に、ミカエルはわけがわからぬまま振り回されていた。
「監視！一体なにがどうしたのです！？」
「ミカエル！まだ間に合うかもしれないよ！彼に教えてあげなくちゃ！」
またしてもわけのわからない言葉に、とうとう音を上げた。
「監視、何を仰っているのかミカエルにはさっぱり判りませんぞ！」
「いいんだ、ミカエル！ボクが自分で言うから！」
「ええっ？」
やはり、ミカエルにはわけがわからなかった。
天空城にはいくつかの庭園と森林が点在している。その中の一つに森林と庭園が隣接しているものがあった。
庭園の花々は枯れることなく、鮮やかな色彩を誇らしげに披露して、甘い香りを漂わせていた。
その花々の間を蛇行している石畳の小道の１本は、森へと延びている。
彼は、鮮やかな色彩も、芳しい香りもまったく遮断してしまったかのように目もくれず、森へと歩いていた。
彼を襲ったのは、最初は怒りだった。この城国への、そして自分自身への。
しかし、時間がたてばたつほど、大切な、大切な人に取り返しのつかないことをしてしまった、その罪の重さが覆い被さってきて、今にも押しつぶされそうになっていた。
命を絶てたらどんなにか楽だったろう。しかし、それだけは決してできなかった。そんな卑怯な真似だけは。
大きな樹の根元に、力尽きたように座り込む。
このまま消えてしまいたかった。
「いつまでそうやって逃げているつもりなの？」
おもむろに声が降ってきた。
はっとして顔をあげた彼の前に、いつのまにか少年が立っていた。
愛らしい顔立ちの、年のころは彼よりずいぶんと若いように見えたが、少年の金の瞳には永きを経てきた者の光があった。
その、印象的な金の目が、自分を睨んでいる。何を怒っているのか判らなかった。
「あなたは――？」
かすれた声で問うた彼に、
「ボクはセラヒム。君はガブリエル執行官だね？君の武勇はよく聞いてるよ」
軽く告げた少年の言葉を反芻していたらしい青年はその名前に思い至ったのだろう。仰天したように言った。
「セラヒム監視！」
「そうだよ。ガブリエル、いつまでもぼんやりしてないで早く彼女を救ってあげなよ。手遅れにならないうちに」
少々苛立ちを含んだような声音に、ガブリエルははっとしたようにセラヒムを見た。
「手遅れ…？」
「彼女には、まだ少しだけ彼女の部分が残っていたよ。それもこのままではいずれ消えてしまうほど、ほんの少しだけれどね」
その言葉にガブリエルは水をかけられたように目を覚まし、跳ね起きた。
彼には、その言葉で十分だった。
「監視、失礼します！いずれ、改めてご挨拶に伺います！」
黒髪の天使は翼を広げると、あっという間に少年の前から飛び去っていった。
「…せっかちなヒトだなあ…」
自分で急かしておいて、ぷっと吹き出した。
セラヒムが見たもの…それは、記憶を奪われてなお、誰かを求めていた瞳だった。
「監視！お聞きになりましたか？ガブリエル執行官が連れてきた例の補佐官が行方不明だそうですよ！」
そう叫びながら、セラヒムの執務室に大慌てで入ってきたミカエルに、彼は「へえ」と言っただけだった。
「…へえって…それだけなんですか、監視？」
「どうして？」
不信そうな顔の部下ににっこり笑ってみせる。
「………。まあ、いいですけどね。何となく判りますので」
「判るって、何がさ？」
面白そうに笑う上司に、一言物申そうと構えたミカエルの後ろから補佐官が告げた。
「あのう、ガブリエル執行官が監視に面会を求めておりますが…」
セラヒムはその名前を聞いて嬉しそうに言った。
「ガブリエル？すぐ通して！」
ガブリエルはセラヒムの執務室に入って、あまりの眩しさに目を細めた。
監視によって部屋の印象もここまで違うとは、彼も想像していなかったのだろう。
「よく来たね、ガブリエル。紹介するよ。彼はミカエル。執行官と、ボクの筆頭補佐官を兼任してもらってる」
「よろしく」
軽く一礼を交わす。あとで知ったことだが、この時、お互いに相手を珍獣のように思ったのだった。
「じゃ、ちょっと、皆は席を外して。彼と二人で話したいんだ」
セラヒムの言葉に、補佐官たちは苦笑して出て行った。
それを見送ったガブリエルは、ちょっと考え込むように口を開いた。
「監視、お聞きしてもよろしいか？」
「なあに？」
「…彼らは、儀式を受けていないのですね？」
予想されていた質問だったのだろう。セラヒムはにっこり笑って頷いた。
「そうだよ。ボクは不完全な者だからね。ミカエルたちに力を貸してもらわなければ、どうしても間違いを犯してしまうんだよ。だから、ボクが必要なのは、個々人の意見と力であって、作業をする人形じゃないんだ」
黙って彼を見つめる黒髪の執行官に、セラヒムは静かに言った。
「あんな儀式が存在すること自体、この国の悪性であることには間違いないよ。そして、それはボク一人ではどうすることもできないということも事実だ。代理人の書には、なんぴとも、いずれの世界の魂の自由を奪う権利は無いと謳われているのに…。――そういう意味ではガブリエル、君は大変な間違いを犯してしまったんだよ。君自身、それは嫌というほどわかっているだろう。…君は、アリアが再び地上に転生できるまでの責任を負わねばならないし、今後、そんな者を再び出さぬよう自分自身とも戦わなくてはならないよ？」
「――はい」
「地上への転生は、アリアの部分がどれくらい残っているかにかかる…。しばらく様子をみておいで。輪廻の渦からはじきだされないように…」
「はい。――監視には、この度のことでご助言をいただきましたこと、深くお礼申し上げます」
深々と一礼した黒髪の天使に、セラヒムは微笑んだ。
「気にしないで」
※
（――あれから、彼はずいぶん変わっていった。強くなったし、そして、優しくなった）
あの辛い経験が、彼にとってプラスに作用したことは本当に良かったと思っている。
「監視、こんなところにいらしたのですか」
ミカエルがテラスに出てきて主を呼んだ。
「うん。ちょっと、昔のことを思い出してたよ…。…ねえ、ミカエル、お願いがあるんだけど」
セラヒムの言葉に、ミカエルは片眉をひょいとあげ、
「サナム執行官の第一子の件でございましょう？」
「…どうしてわかったの？」
驚くセラヒムに、ちちち、と人差し指を振ってみせた。
「このミカエルがどのくらい監視のお傍にいるとお思いか？」
「さすが、ミカエル！そうだよね！やっぱり好きなひとの力にはなってあげたいよね！」
「…監視…」
花が咲いたように笑ってガッツポーズをとった上司に、ミカエルは何と言っていいものやらちょっと悩んでしまった。
