※※※径
巨大なハチの群れから逃れるように走っていたムラト、サンダー、ゲオルゲの三人は、足を止め、肩で息をしながら後ろを振り返った。
「光麟は大丈夫かのう……」
ゲオルゲが心配そうに呟くのに、サンダーが感心しきりというように頷いた。
「あの美青年は、今時の若者にしては珍しく正義感のある奴だな。口は素っ気無いことこの上ないがな」
「わしらのせいで彼に何かあれば、王に申し訳がたたん。ちょっと様子を見てこよう」
ムラトが言い、松明を掲げて歩き出したところへ、城壁の角を曲がってきた光麟が現れた。
「光麟！ よかった！ 無事だったか」
ムラトがほっとしたように笑うと、青年は微かな笑みを唇に浮かべ、ムラトの松明から、自分の消えた松明へ火を移した。
「じいさんたちも無事なようで重畳だ。途中で足でも転がっていたら回収しようと思っていたところだ」
「…………いまのは冗談か？」
「冗談じゃろ？」
サンダーが傍らの友人にボソリと訊くと、ゲオルゲは丸い小さな目をぱちくりさせた。
「しかし、よくあの怪物の群れを振り切ってこれたな」
「ああ、これのおかげだ」
光麟は腰に吊るした長剣を指した。
青石の嵌め込まれた柄には竜が舞い、鞘にも同じく精緻な彫刻が施され、柄と向かい合わせになるように青石を握る竜が昇っていた。
「……お前さん、剣など持っとったか？」
「らしいな」
返ってきた意味不明なこたえに首を傾げなら、ムラトは歩き出した青年を追う。
城壁は高く聳え、登ることは困難だった。壁際の地面は怪物が掘りかえしたあとがぐるりを廻っている。反対側は林立する食虫植物が際限の無い捕食を繰り返し、魔蟲どもはムラトらの持つ炎を恐れて寄ってはこない。先の巨大な怪物のあとからは、襲い掛かってくる様子もなく不気味な静寂が訪れていた。
「とにかく入り込めそうな場所を探そう」
「うかつに穴なんぞあけると、また何が出てくるかわからんぞい」
四人は周囲に気を配りながら歩く。
「さっきの怪物はこっから出てきたんじゃな」
巨大な穴が、ぽっかりと黒い口をあけていた。光麟は延々と続く城壁と、穴を見比べ、やがて肩を竦めた。
「入り口はここしかなさそうだな」
「そうじゃのう。このまま歩いても最初の場所に戻るだけじゃろう」
「怪物の巣にぶちあたらんように歩かねばな」
「……ここも臭そうじゃがの」
至極あっさりと同意した老人たちに、光麟は思わず呆れたような顔を向ける。――この楽観主義、否、底なしの好奇心のかたまりのような三人の老人には、当たり前のことを言ってみたところで無駄なのだ。そう理解した青年は、こっそりと嘆息したのみで、もう何も言わなかった。
腰の皮袋から小さな羅針盤を取り出し、城壁の向こうを確認していたムラトが頷いた。
「この砦から城までどのくらいあるかな……。わしが先に行く。あとから着いて来てくれ」
「……大丈夫なのか？」
光麟が訊けば、ムラトはにやりと笑ってみせた。
「いつまでもお前さんを危険な目にあわせておくわけにはいかんだろ。早く王のもとへ行かねばならんのだし」
「それはそうだが……」
「じゃあ、殿はわしが勤めよう」
サンダーが請合い、ぽん、と胸をたたいた。
「ほな、ちゃきちゃき進もうかの」
穴に降りはじめているムラトを追い、ゲオルゲが続く。
「美青年、行きたまえ」
光麟は再び嘆息し、ゲオルゲの後へ続き、サンダーは念のために後方を確認して、怪物の穴へと入って行った。
彼らが中へ消えてほどなく、食虫植物の林の土中からぼこりと現れた黒い蟲が、何本もの触覚を蠢かし、穿たれた穴へと近づいていく。甲殻を持つそれは肢を動かすたびにカシャカシャと鳴る。一匹が穴の中に入り込むと、あちらこちらから蟲が湧き出し、肢を鳴らしながらぞろぞろと穴に向かって進み始めた。
光麟たちが暗黒世界へ入ったあと、結界守たちは銀の炎を各家の暖炉に配った。無論、封印の盾がある場所には、この火を絶やさぬよう火の館が建設されることになり、火の番も新しく設けられることになった。
重苦しい雰囲気を振り払うように、彼らは一心にそれらに取り組んだ。
北の森の入り口、数人の姿があった。
「道中、気をつけて参られよ。花の都の青き貴人にも、くれぐれも宜しくお伝えくだされ」
森のお婆クロエは、銀髪の男を見上げて言った。
「承知した。何の手伝いもできず、申し訳ない。婆どのもお達者で」
アイオリア・ガナは精悍な相貌をほころばせた。老婆はフードの下でにこりと笑うとひとつ頷いた。
アイオリア・ガナとエヴァンゲロスは固く手を握り合わせる。
「長も、どうかお達者で」
「また、いつか」
それまでじっと俯いていた少女が、クロエの元に跪いた。
「婆様。あの……もし、ハナ様や光麟のことがおわかりなったら、お知らせくださいませんか……？ わたくし、それまでお祈りしていようと思います」
「……知らせよう。負の気が暗黒神に力を与えたと同じに、ヒトの祈りもまた大きな力となる。そなたはそなたの出来ることで、王をお助けすることになろうよ」
老婆の優しいささやきに、藍華は溢れてきた涙をぬぐって笑った。
「そうじゃ。女の子は笑っておるが可愛いよ。そなたも、元気でおやり」
「はい」
藍華は花のような笑顔で頷くと、立ち上がりアイオリア・ガナの元に駆け寄った。水華蓮の守人の長は、やっと笑顔をみせた少女に微笑む。そうして、手を振って去っていく二人を、結界守たちは視界から消えてしまうまで見送った。
吹きぬけた風に冷たいものが交じり、夏のたそがれを告げていた。
※
真紅のドレスは豪奢なレースが胸元を彩り、絹の紋繻子が体のラインにそって、太腿の半ばでひだが広がるような意匠だった。赤い紅玉の首飾りの下に白竜の鱗を入れた小さな袋をさげるとドレスの胸元に突っ込み、短剣に戻った剣を躊躇なく腰に吊るす。そして、用意された赤い靴に手を伸ばしかけ、やめた。剣を持っていたとしても、体が利かないでは身を護ることはできない。幸い、ドレスは床を引きずるほどに長いのだ。足の自由だけは確保しておくに如くはない。
脱いだ自分の服をたたもうとして、ふとシャツの胸ポケットに入っている小瓶に気がついた。
それは、ターガナーダからもらった香水だった。
一度は彼に返したものの、いつのまにかコートのポケットに入っており、あちらにまで持って帰ったものだ。そんないたずらをしたのはターガナーダ本人か、あるいはシュリーマデビイだったのか……今となっては、知るすべもない。
（……参謀長官殿は元気かなあ……）
群青の髪と青銀の目の――仏頂面の青年宰相の顔を思い出す。
ハナはふっと笑みを洩らし、香水瓶を握った。
水華蓮を出て、まだ数ヶ月だというのに、もう何年も前のことのような気がする。
彼にまた会うことができるだろうか？
彼女は、一度ドレスの中に落とし込んだ小さな袋を引っ張り出すと、香水瓶をその中に入れた。
ドアを開けると、幽鬼のような影が、ぎくしゃくと一礼した。そして、くるりと向きを変え、すうっと進み出す。
ハナは足元を確かめるように歩き出した。
案内されたのは階下の広間だった。
灯火がいくつも並んではいるが、それでも闇は濃く、冷たい粘りけのある空気が纏わりつくようだった。
テーブルの脇に立っていた竜樹がハナに微笑みかける。そして、腰につるされた剣を見止めたが、何も言わなかった。
「よく似合うよ、ハナちゃん。さあ、座って」
ハナがテーブルに近づくと、ふっと現れた幽鬼が椅子を引いた。あまり気持ちのいいものではなかったが、ハナはだまって腰をおろした。
注がれる赤い色の酒、幽鬼が運んでくる湯気のたっている料理――何もかもがちぐはぐで、いびつに見えてくる。
竜樹はむっつりと黙り込んでいるハナに構わず、酒を飲み、料理を口に運んだ。
そのとき、胸元の鱗と、腰の剣が同時に熱を発した。
「……おや」
食事の手を止め、竜樹は小首を傾げる。
「なんだか、外が騒がしいみたいだ。……そんなに睨まないで。この城にはたくさんの警備がいるんだよ。侵入者があれば、彼らが始末するんだ」
楽しそうに笑う青年をきつい目で見つめながら、ハナは問うた。
「彼らは無事なの？」
「あいにくとね。ついて来た年寄りも元気だね」
「……あなた、何者なの」
ハナの言葉に、竜樹は笑った。
「おかしなことを言うね。僕は竜樹だよ、君の従弟の。……もっと言うなら、君の、弟だよ……そうでしょう、衡漢王？」
ハナは、しばし状況も忘れて唖然とした。
衡漢王の、おとうと？
「……忘れたの？ 転生すると記憶がなくなるって言うけど、困ったものだね。君のあとを継いで、水華蓮をたてたのは弟である僕、真槐なんだよ？ あそこの国の人間は、ほとんど知らないことだけれどね！」
呆然としたようなハナを見て楽しんでいるかのように、竜樹は水華蓮の興りを話した。
衡漢王には双子の弟がいたこと、ホウライヌより戻ってほどなく死んだ衡漢王のあとを継いで、弟の真槐は衡漢を名のり国を治めたこと。そして、その事実は人々に伏されたままであることなど――。
竜樹は、黒い瞳に妖しい光をたたえながら、ハナを見据えて言った。
「……その剣は持ち主を食い殺すっていうよ。また、同じ事を繰り返すつもりなの、兄さん――？」
※
怪物の穴は予想以上に大きく、長身の光麟が手を伸ばしても天井に手がつくことはなかった。怪物は闇雲に進んでは通り道に出てきたのか、あちこちに横穴があいている。
その穴ぐらを進む三つの松明は、慎重に移動していた。無論、彼らが目指すのは城の中である。地中へと下る道は避け、なるべく地表に近い、城の方角へと進んで来ている――ムラトが持っている小さな羅針盤によれば、間違いない。
四人は今またいくつかの岐路に立ち、羅針盤を囲っていた。
「……さて、どちらへ行く？」
「地中に向かうのは危険だな」
「うむ……だが、この方向に城があるはず……ん？」
「どうした、ムラト？」
「しっ。なにか……」
耳を済ませていた光麟が、眉根を寄せた。遠く、金属を擦り合わせるような音が響いてくる。
「……新手らしい……」
光麟の呟きに、三人は顔を見合わせた。地中への道は避け、城にほど近い方へ伸びている道を選ぶと、四人は慎重なうえにも足早に進むしかない。
不気味な金属音は徐々に近づいており、否応なしに彼らを追い立てる。
「急げいそげ」
そうして進むうち、突然、横穴から黒い蟲が飛び出してきた。
「わっ！」
ムラトは叫び、松明を取り落としそうになる。蟲は触覚を揺らめかせ、危険な炎を感じると、カシャカシャと肢を鳴らしながら方向転換しようとした。そこへ次から次へと横穴から溢れてきた蟲どもがだんごになってひしめく。
こんなものを一匹ずつ相手にしていたのでは体力ばかりが消耗する。四人は大きく迂回してそれらを避けると、先へと進んだ。
いまや、蟲の鳴らす音は洞穴じゅうに響き渡り、どちらの方向から来ているのかさだかでない。
ムラトはちらりと羅針盤に目をやり、ひとつの横穴に駆け込んだ。そして程なく、あきらかに空洞と思われる場所に出た。もとより、明かりは松明のみである。その光が闇に吸い込まれ、全容までは確認できなかったが、壁伝いに進んでいくと、煉瓦を積み上げたような石壁が見えた。
「城だ！」
ムラトが思わず快哉を叫んだとき、カシャカシャと鳴っていた音が、突然すり潰されるような響きに変わった。
一斉に松明を掲げ、振り向いた彼らの前、恐ろしく巨大な六本肢の蟲が現れていた。それも一体どころではない。城壁の外で遭遇したものよりはひと回りほど小さいが、十数匹はいるそれらが、入り口からなだれ込んできた蟲の硬い殻をものともせず、難なく噛み砕いている。
「しまった、巣だったのか……！」
「今のうちに壁を突き破るしかないぞ」
ムラトのうめきに、光麟は低く応えると剣を抜いた。蒼い清冽な光があたりを照らし出す。
蟲どもは高熱を浴びせられたように飛び上がると、穴の外へと逃げ出していく。だが、親らしき巨大な蟲だけは、巣を荒らす侵入者に敵意を剥き出し威嚇のこえを上げた。
剣を石の継ぎ目に突き立てている光麟を護るように、ムラトらは松明を掲げて対抗した。蟲は二本の肢を振り立てながら襲いかかろうとする。
「しっ！ しっ！」
「あっち行けっ！」
サンダーとゲオルゲが松明を突き出して蟲を払う。その背後で光麟は何度も壁に剣を突き立て、やがて、貫通する手ごたえを感じた。
「よしっ！」
青年は剣を持ったまま、ゆるんだ煉瓦に蹴りを突き込んだ。壁石は、鈍い音をたて、城の内部に落ちた。
「じいさんたち、合図したら向こうへ飛び退け。奴に穴をあけさせよう」
「よしきた！」
三人はじりじりと寄り集まり、風穴のあいた壁際へ立っていた光麟はゆっくりと剣をおろした。巨大な蟲は、二本の肢で空を掻き、凄まじい勢いで青年に飛びかかった。
「よけろ！」
四人は二手に飛び退いた。
突進した蟲は、小さな壁の穴を突き崩した。土煙をあげて、内部へ落ちていく瓦礫から這い出した蟲の肢を光麟が切り飛ばす。くぐもった唸りをあげた蟲は、悪臭を放つ体液を撒き散らしながら方向転換し、太い槍のような肢を地響きたてて地に突き刺した。
身を翻し、肢から逃れる光麟を追って、蟲は何度も地に肢を突き立てる。
「今のうちに城へ入れ！」
ムラトは叫び、大穴のあいた壁に駆け寄ろうとした。ズン、という振動が伝わったとき、三人の足元が崩れた。
「わあっ！」
ぽっかりと口をあけた空洞は、ムラト、ゲオルゲ、サンダーを飲み込み、あっというまに広がっていく亀裂に、巨大な蟲がもがきながら落ちていった。
「じいさん！」
光麟は咄嗟に城の壁を掴んで落下を逃れ、下へ叫んだ。地の崩れる音が響く暗黒の穴は、深浅さえはかること適わず、青年は荒い息を吐きながら凝然と闇を見つめていた。
※※※あとがき……ってほどのもんでもないですが。
いつもありがとうございます。
「虚空の鑑」も完結まであと数話を残すところとなりました。
ここまで続けてこられたのも、待っていてくださる読者の方のおかげです。ありがとうございます。
最終話までもうしばらく、お付き合いいただければ幸いです。
