※※※執行官ミカエル
「ただいま…」
「ガブリエル様っ！おかえりなさ…」
玄関口へ駆けてきた沙門の足がピタリと止まった。
「あ…」
金髪の少年と、ド金髪の青年の目が合った。
ミカエルは、わなわなと震えだし、ぐいとガブリエルの胸ぐらをつかんだ。
「ガ、ガブリエル！見損なったぞ！貴様にこんな趣味があったなんて！」
「こんな趣味とはどんな趣味だ」
「愛らしい少年を連れ込んで、一体何を…っ」
ガブリエルは鞄をミカエルの顔面に押し付けるようにして引き剥がすと、深いため息を吐いた。
「…沙門、刀自はまだ起きておられるか？」
「は、はい。お呼びしてまいります」
沙門はパタパタと部屋の奥へ駆け戻った。
「し、沙門だと…？」
「そうだ」
「あれが、沙門だというのかっ？」
ショックを隠せないミカエルに、ガブリエルは面倒くさそうに頷いた。
「あれが…な…なんて愛らしいんだ！」
握りこぶしをつくって、頬を赤らめコーフンしている同僚を横目で見たガブリエルは、
「…〝こんな趣味〟というのはお前の趣味だろう」
げんなりと呟いた。
座敷に通されたミカエルは、物珍しそうに部屋を眺め回した。
「ミカエル、こちらは桜刀自だ。我々に住居を提供してくださっている」
「初めまして、桜殿。私は執行官ミカエルと申します。お目にかかれて光栄です」
派手な金髪が垂れ下がる。
「はじめまして、ミカエル様。どうぞゆっくりしてらして下さいね」
「ありがとうございます。ところで桜殿。この世界には私やガブリエルと同じ名を持つ者が天使と呼ばれているのですね！」
「ああ、本を読まれたのですね？でも、あなた方の世界と随分違っておりますでしょう？」
「ええ。驚きました。何がおかしいって、このガブリエルの、部下が！ケルビムという名の天使！ですからな！」
ぷぷぷ、と笑ったミカエルの横で、ガブリエルはこめかみを押えている。どうやら無意識らしい。
沙門はなにやら可笑しく思ったが、時間も遅いので止めに入ることにした。
「刀自、もうこんな時間です。お休みにならなければ…。ミカエル様、申し訳ございませんが今日はどうぞこのくらいに」
沙門の言葉にガブリエルも頷いた。
「そうだな。刀自、お風邪を召されぬうちにお休み下さい。沙門、部屋へお連れしてくれ。我々も離れへ引き上げよう」
月が煌々と照らす庭を歩いて、ガブリエルと沙門が暮らす離れへと戻って開口一番、ミカエルは低く呟いた。
「セクラムが動き出したぞ。刀自が狙われている」
「…。またアイツか」
「それと、お前の失脚もだ」
ミカエルは仮面を脱ぎ捨てたかのような怜悧な目で同僚を見つめた。
痛くも痒くもなさそうなガブリエルの顔を見て溜息をつく。
「…。まあ、お前が執行官などというモノに執着がないのはよくわかってはいるつもりだが。…チビどもがな…」
「…あれらがどうかしたか？」
初めて表情を動かしたガブリエルに、金髪の天使はまた溜息をついた。
「お前、あの文書を始末しなかったろう」
「………。すっかり忘れていた。あいつら、見つけてしまったのか」
あまりに軽く言われたので、ミカエルは思わず畳に沈みそうになった。
「お前な！」
「…というか、なんでお前がそれを知ってるんだ」
「う。そ、そりゃあ、一応な…」
ごにょごにょ言う同僚に、ガブリエルは剣呑な目を向けた。
「アリアのことを話したのか？………話したんだな…？」
ガブリエルから青白い気が立ちのぼる。ゆっくりとミカエルに向き直ったとき、小さな物音がした。
同時に振り向いたその先に、おびえたような顔の沙門が立っていた。
「……も、申し訳ございません…。あの、声をおかけしたのですが…」
消え入るようなか細い声で謝罪する。
ガブリエルは苦い吐息をついた
「いい。お入り。――まあ、お前に文句を言ったところで、あの文書を消さなかった俺の不手際が原因だからな」
「ガブリエル…」
「で？あいつらに何を話した？」
「…監視役補佐官がどういう処置を施されるかを。言っておくが、俺がお前の執務室に赴いたのはセラヒム監視の指示だぞ」
頭を抱えたガブリエルだった。唸るように同僚に忠告した。
「…ミカエル、悪いことは言わん。もう帰れ。セラヒム監視にもよけいな火の粉が飛ばぬうちに」
「それは無理だ」
「はっ？」
「実は、俺は下界に左遷されたのだ。日ごろの素行が悪いという理由で」
唖然とするガブリエルにミカエルはあっけらかんと言った。
その意味が解らぬ二人ではない。
だいたい、セラヒム監視の筆頭補佐が、日ごろの素行が悪いとかいうふざけた理由で下界に飛ばされること自体、どう考えてもおかしすぎる。
再び頭を抱えたガブリエルは苦く呟く。
「まったく、あの方は…」
「まあ、監視は初めからお前を気に入ってらしたしな。お前のやることを面白くご覧になっているようなところもおありだし」
それは非常に問題だと思うのだが、ガブリエルにしたところで、セラヒム監視には多大な助力を被っている。
恩を返しこそすれ、また恩を受けるのかと思うとさすがに身が縮む。
そんな彼の内心を見透かしたように、ミカエルは言った。
「ガブリエル。セラヒム監視には監視ご自身の思惑がおありなのだ。お前は利用されているにすぎん。恩を受けたなどと思わぬことだ。……と、監視がそう言えと仰っていたぞ。」
「………」
あけすけな物言いにガクリと肩が落ちた。
ミカエルは肩をすくめて断言した。
「ま、ともかく。遅かれ早かれ、あんなものを見てしまったら、あいつらはじっとしてはおらんだろうよ。ここにいる沙門と同じにな」
「………」
口元に手をあてて、ガブリエルは沙門を見つめる。見たこともない主の真摯なまなざしに、少年はどぎまぎして頬を赤らめた。
「カワイイなあ、お前。今日は俺が添い寝をしてやろうな」
「えっ？」
いきなり顔面土砂崩れをおこしたミカエルの頭にガブリエルの拳固が飛んだ。
※※※真実
若葉が茂り、暖かく感じていた陽光がじんわりと暑くなってきた。
あれからミカエルは離れに転がり込んで、同僚に鬱陶しがられてもへいちゃらな顔でついて回っている。
その朝も学校へ行く主と、それにくっついて行く金髪の天使を見送った。
沙門は思わず笑いを洩らした。
「ふふっ」
何だかんだ言いつつ、あの二人はいいコンビなのかもしれない。
ガブリエルを気に入っているというセラヒム監視にも一度会ってみたいと思うようになった。
それから、手の中の携帯電話に目を落とす。
〔刀自に何かあったらすぐ呼べ〕
そう言われて持たされた物だ。
主が自分を信頼してくれている、その確信はなんと力が湧いてくることだろう。
（はい。ガブリエル様。はい…）
沙門は携帯電話をぎゅっと握り締めた。
金髪の天使に眺められているとは露知らず、生徒たちは平和に授業を受けていた。中には気持ちの良い陽気にうとうとする者もいるようだが、寝入ってしまう者はいなかった。寝たら最後、だらしなく弛緩した姿がクラス中のさらし者にされるからだ。
そんなおかしな罰則を差し引いたとしても、ガブリエルの授業はさすがのものだった。
ミカエルもこんな同僚の姿は始めて見るので、興味津々に眺めていた。
ふと、うなじがチリチリするような気配に振り返る。
「…。ガブリエル、来たぞ」
それまでその存在を無視していたガブリエルは、はっとして同僚を見た。ミカエルはガブリエルの言葉を待たず、窓から飛び立った。
同時にポケットの携帯電話が振動した。
「先生…？」
「すまない、急用だ。残り時間は自習だ。委員長、あとは頼む」
「は、はいっ」
怪訝な顔をする生徒たちを残し、ガブリエルは急いで教室を出る。ざわめきを背に、面倒だとばかりに翼を広げて空へと羽ばたいた。
振動し続ける携帯電話の通話ボタンを押す。
「沙門か？」
『ガブリエル様っ！刀自がお倒れに…！』
少年の泣きそうな声。ガブリエルはあえて静かに言い渡した。
「今そっちに向かっている。城から使いが放たれたようだ。万一、俺より先に奴らが着いても絶対に刀自を渡すな！」
『はいっ！』
沙門の震える声が響いた。
沙門は刀自の枕もとで必死に歯を食いしばり重圧に耐えていた。自分ひとりで刀自を守れるのかという不安と、巨大な相手に逆らう恐怖、それでも主について行くのだという決意がせめぎあって今にも倒れそうだった。
バサリという羽音が聞こえた。
ビクッとして振り返る。しかし、見えたのは焦がれるように待っていた主の光だった。
「…っ！」
嬉しさに涙がこぼれそうになるのをこらえ、障子を開けると、純白の軍服姿のガブリエルが立っていた。
「刀自は？」
「今は眠っておいでです」
「そうか…」
ガブリエルはその姿のまま部屋へ上がった。
布団に寝かされた刀自は静かな寝息をたてている。
「………」
片膝をついて、しばらく刀自を見つめたガブリエルは、す、と目を伏せた。
「今夜か…」
呟いて、ふと傍らをみれば、沙門がガブリエルの軍服の裾を握り締めて震えを我慢している。
無理もない、と思った。他の執行官に仕えていればこんな怖い目にあわずにすんだものを、それでも城に帰りたいとは言わない少年を愛しく思った。
「怖いか…？」
降ってきた優しい声に、沙門ははっと顔を上げて首を振った。
「いいえ！……いえ、あの…はい…」
真っ赤になってうなだれた少年の金髪に手を置いた。
「怖ければ、どこかに隠れていろ。迎えに来てやる」
「……」
口を開きかけた沙門を、ガブリエルが手をあげて遮った。
「……。ミカエルが戻ったな…」
言った矢先に襖が開いた。
ミカエルはあれから城の使いを呼び止め、のらりくらりと足止めさせて、一旦は追い返してくれたらしかった。
「まあ、あれで諦めたとは思えんが」
「そうか…。すまなかった。…ミカエル、もういい。城へ帰れ」
「イヤだね」
「ミカエル…」
「左遷撤回の宣旨はまだ出ておらん。今戻ったら私は罰則だ」
「……好きにしろ…」
しれっと応える同僚に、諦めたように言った。
「ガブリエル様、刀自が…！」
隣の座敷から沙門が呼んだ。
うっすらと目を開けた刀自は、居並ぶ天使たちを見た。
「刀自、ご気分は？」
静かに問うガブリエルに微笑する。
「ありがとう。ずいぶん楽になりました。…どうやら…今日でお別れみたいね…」
「…気づいてらしたのか…？」
「ほほほ。そりゃあ、自分の体のことですもの。―――エル、お願いがあるの…」
「何なりと」
「…貴方に何があったのか、教えてほしいの」
「………」
「貴方の過去を聞いたところで、私に何かできるわけではないのは、よく解っているつもりよ…。でも、貴方が何に悩んで、怒って、耐えていたのか、知りたいの…」
刀自のまっすぐな視線を真っ向から受け止め、やがて静かに目を閉じたガブリエルは、ややあって頷いた。
「わかりました。お話ししましょう」
ガブリエルは、ケルビムの命で監視役補佐官になり得る魂を探すため下界に降りていた。
下界は一五世紀も終わりに近い頃。日本では戦国時代に入ろうとしていた。
探し回った挙句、ふと立ち寄ったヨーロッパの小さな村で、飛んでいるガブリエルに窓から声をかけた者がいた。
それがアリアだった。
彼女の病弱な体は外出することもかなわず、いつも寝台に横たわっていなくてはならなかったが、好奇心旺盛で彼にいろいろな話をねだった。
しばらく一緒にいるうちに、二人は互いに惹かれあうようになっていた。
アリアの最後の日、ガブリエルは彼女の魂を連れて城へ戻った。
「…あの時、私はただ、彼女を手放したくなかっただけで、監視役補佐官がどんな処置を施されるのかなど考えもせずに、ケルビムの前に連れて行ってしまった…。あの補佐官任命の儀式の後で、アリアに施された処置が何だったのかを知った…」
アリアのあの輝くような〝色〟が、光が消えてしまっている。
好奇心に輝く瞳が、今ではガラスのように無機質に変貌してしまった。
ただ、アリアが生きてきた中で育まれた聡明さ、清らかさのみが残されているだけだった。
許せなかった。
人の一生の時間は自分たちの数百分の一にしか満たない。だからこそ短い時間の中で手に入れたあらゆる思いや、経験はかけがえのない魂の財産となる。
それを、彼女が生きてきた軌跡を、証を、自分たちの都合のいい部分だけを残し、消し去った！
その傲慢さ！
怒りが体中を駆け巡る。そして、同時に自分がしてしまったことの罪深さも知った。
許せなかった。傲慢なこの世界も、自分自身も。
彼は決意する。
彼女を再び地上に返すことを。もう一度、あの世界で輝いて欲しいから…。
「そして、私は彼女が一人になるごくわずかな時間を見計らって連れ出し、輪廻の渦に戻した。あれで終わったと思った。けれど、しばらくして様子を見に地上に降りている途中で、渦の外で彷徨するアリアを見つけたのだ。しかし、一瞬でまた見失ってしまった…小さな貴女に会ったのは、その頃だ」
苦しげに話していたガブリエルの相貌が、あの時を思い出されたのか少しやわらかくなった。
「……それで、泣いていたのね…。あれから、貴方はずっとその方を探していたのね。そして、２度目に会った時、その方をもう一度輪廻に戻すことができたのね…？」
静かに頷いたガブリエルの手に、刀自は細い腕を伸ばし、いたわるように触れた。
「……！」
その手―――
みずみずしい張りとつやが戻り、その相貌は、ガブリエルが２度目にあった乙女のものになっていた。
「つらい話をさせてごめんなさい。…でも、話してくれて嬉しい。…エル、貴方に会えて嬉しかったわ。きっと、アリア様もそう…」
「―――」
問うような顔のガブリエルに桜は笑った。
「わかります。だって、同じ女ですもの」
笑いかけていた乙女の顔が、どんどん幼くなり、いま、ガブリエルと初めて会った時の少女が布団の上に立っていた。
「…あのね、桜は、本当はね…、大きくなったらガブリエル様のお嫁さんにね、なりたかったのです」
頬を染めながらのたどたどしい言葉に、ガブリエルの相貌が笑みこぼれた。
「それは嬉しい申し出だ。…さあ、もう時間だ。入り口まで連れて行ってあげよう」
小さな体を抱き上げて、翼を広げる。
３人の天使は夜の空へ上昇した。
