※※※守護者
ローティスが溜息と共に吐き出した通り、大陸には大穴があいた。
それは、しかし物理的な次元の話である。
あの爆発の衝撃で亜空間と呼ぶべきものが造られ、次元の裂け目がかえって塞がれたようだった。
無論、そのままではいずれ大陸が二つに裂けてしまうので、セラヒムの力によってきちんと元通りに埋められた。
その現状をセラヒムから告げられて、ガブリエルを責めるに責められないケルビムは、かなり長いあいだ顔を赤黒く染めていた。
上司の変色した顔などにかかずらっておれないガブリエルは、子供の預け先の選抜にかかった。
あの子供が将来、一人立つために必要な知識を与え、かつ技と精神を鍛えてやれるような人物でなくては、とうてい安心して預けられない。
「うーん…」
珍しいくらい悩んでいる上官に、ローティスが笑って言った。
「何故そんなにお悩みになるんです？いちばん適任な方がいらっしゃるではありませんか」
「……？」
「ご自分を育てて下さった方は、貴方の選抜リストには載っていないのですか？」
ガブリエルはしばらく、まじまじと部下の顔を見つめ、
「あっっ！」
椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「ソウマ」
しょんぼりと肩を落して、使者に着いて行く子供を呼び止める。
「はい…」
「これを持っていろ」
ガブリエルは、文様を透かし彫りにした円形の、銀の徽章を子供の手に落とした。徽章と同じ銀でできた鎖が透明な音をさせた。
ソウマをヨウのもとに送り届けるため迎えに来ていた者は、少年の手に渡されたものを目にしてぎょっとした。
それは子供の手の平くらいの大きさで、輝く太陽を背にして、柄に翼を持った３本の剣が天を指して切っ先を交わらせ、それを囲むように豪奢な花の文様が彫られていた。
ソウマにはよく憶えがあった。街に降りたときに、自分の首にかかっていたものだ。しかし、この徽章が何を意味するのかよくわからなかった。
知っているのは、ガブリエルの大事な物だということだけである。
見るものが見れば、数々の勲章を受けてきた者にのみ与えられる徽章であり、ガブリエル固有の紋章であることがわかっただろう。
なぜ、「固有の」と言われるのか。
それは、ガブリエル以外の者が持つことは許されぬ紋章だからである。
しかし、例外が一つあった。今のように持ち主が相手にそれを与える場合である。
ガブリエル固有の紋章がソウマに与えられたということは、ソウマ自身にガブリエルの効力が備わったということだ。
権力が欲しくてたまらぬ者には、これは大変な象徴となったことだろう。無論、ガブリエルはそんなことのためにこれをソウマに預けたのではない。
この子供には、自分の足で立ち上がり、戦える力が備わるまでは、どうしても絶対的な庇護者が必要だと感じたのだ。
なぜならば、闇の色を纏う者は、闇の者を呼び寄せる力も持っているからだ。
「しばらくはお前の役に立つかも知れぬ。立たぬかも知れぬ。コレのためにお前に煩わしい事がふりかかるかも知れぬ。…ただ、お前はこれから技においても、精神においても真実、強くなっていかねばならぬ。誰よりも鍛えていかねばならぬ。それは、お前がその身を持って生まれたことの使命と心得よ。その徽章はそのことを忘れないための標と思え」
ガブリエルのその厳しい言葉にソウマはじっと耳を傾けていたが、きゅっと口を引き結び、
「はい、ガブリエル様。僕は誰よりも強くなります」
敬愛してやまない男をしっかりと見つめて応えた。
ガブリエルの相貌がやわらかくほころび、子供の頬にそっと手を触れた。
「元気でな。ヨウにしっかりと鍛えてもらえ。あの男は師と仰ぐにあまりあるものを、お前に与えてくれるだろう」
「…はい…」
こらえきれなくなったように、ソウマの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
父であり、兄であり、師である彼から離れるのが寂しくて、辛くて仕方なかった。本当はずっとここにいたかった。
もう会えないのだろうか…？
「…ガブリエル様…僕が…強くなったら、また、お会いできますか…？」
先ほどの決意の勢いはどこへやら、ソウマはしゃくりあげながら訊いた。
ガブリエルが思わず小さく吹き出す。
「無論だ。いつでも来い」
その言葉にぱっと顔を輝かせたソウマは、ぐいと涙をぬぐうとガブリエルからもらった徽章を大事そうに首にかけた。
使者はガブリエルに一礼し、子供を促した。
「さあ、ソウマ、行こう」
「はい」
ソウマが返事をしたときだった。ガブリエルの足元を白い塊がすり抜けた。
ニャア！
「ミシロ！」
子供は嬉しそうに手を差し伸べ、抱き上げた。ゴロゴロと喉を鳴らした猫は、ちょっとお伺いをたてるように主人を見つめた。
ガブリエルは、ふっと笑うと白猫に言った。
「ミシロ、ソウマを頼むぞ」
白猫は了解の意を表してニャアと鳴いた。それは誇らしげに。
使者は初めて見る動物に仰天していたようだったが、やはり何も言わなかった。
ソウマは、振り返り、振り返り、ガブリエルが見えなくなるまで手を振り続けた。
※※※
「ガブリエル様、こんなところでお休みになってはいけませんよ」
執務室の来客用ソファに長々と伸びている主に、黒い天使は声をかけた。
他の者は各自の部屋で深い眠りの中に入って久しい。
執務机の上には毎度のごとく本の山ができていた。書きかけの書類が数枚、放り出されている。
「…クナビか」
薄目をあけ、ガブリエルはその長身を起こすと大欠伸をした。
「なんどきだ…？」
「もうすぐ夜が明けてしまいますよ」
呆れたように笑った青年に、ふと目を向ける。
「お前は何で起きてるんだ？」
「ガブリエル様が起きてらっしゃるからです」
しれっと応えた黒い天使に苦笑する。
「きちんと睡眠は取られませんと、いくら体力に自信がおありでも、何かの拍子にいっぺんに出てくるかもしれませんよ？お父さん」
「…お前、それは、イヤミか？」
「とんでもありません。私の大事な父上を心配してるんです！急に倒れてそのまま…なんてことも、なきにしもあらずでしょう？」
「嫌なこと言うなあ…。わかった、これからはちゃんと寝る」
ぴしぴしと叱りつけられて、ガブリエルは息子に降参の手を上げた。
この会話は見た目に年齢差が感じられないので、傍から見るものがいれば奇異に思ったことだろう。
窓の外、遠く連なる山の端はもう白みはじめていた。
クナビは、「あ」と呟いて衣の下から何かを引っ張り出した。
「…ガブリエル様にお返しせねばと思っておりました」
表情を改めた黒い天使が差し出した物を受け取り、彼は、しばしそれを見つめた。
あの日、小さな黒い天使に預けたガブリエルの徽章。
あの子供は、彼との約束を見事に果たし、今、彼の有能な補佐官として共にいる。
唇に笑みを刷いたガブリエルは息子に問うてみた。
「…コレはお前の役に立ったのか…？」
「はい。幾度となく助けていただきました。まあ、確かに、あの時ガブリエル様が仰ったように、煩わしいウワサもたちましたが。…私がガブリエル様の龍陽の寵を受けているとか…」
「ふふん。で？どうしてやったんだ？」
「別に何も。あんまり五月蝿い者には多少、痛い目にあってもらいましたが」
「なんだ、俺が父親だと言わなかったのか？」
思いがけないガブリエルの言葉にソウマは一瞬ぽかんとし、
「言ってもよかったのですか？ああ〜残念だなあ！もしも言っていたら、どんな顔をしたんだろう？」
心底悔しそうなその返答に、くつくつと肩を揺らして笑ったガブリエルは、徽章を黒い天使に返した。
「これはお前にやったものだ。役に立ったと言うなら、今後もそんな時が来るかもしれん。まあ、来ないかもしれないが。どのみち、持っていたところで俺には何の役にも立たん物だ」
「………」
そんなはずはないが、ソウマはにっこり笑っただけで何も言わずに受け取ると、再び首にかけ、大事に衣の中に入れた。
そして、窓からやわらかく差し込んだ光に目を向ける。
「…そろそろ、皆が起きてくる頃ですね…。今日は私も沙門の手伝いをして朝食の準備でもしましょうか。――ああ、そうだ。久々に私がお父さんに目玉焼きを焼いてさしあげましょう。大丈夫！もう砂糖と塩を間違えたりはしませんから」
ガブリエルが何か言うより早く、黒い天使は楽しそうに執務室を出て行った。
「…」
それを見送ったガブリエルは、ふ、と笑うと、再びソファに転がる。
目玉焼きが出来上がるまで、もう一眠りすることにした。
完
