※※※黒の子供
天空に浮かぶ大陸。
その真ん中に、翼ある人々が住まう白銀の巨大な城が聳え建っている。
城を中心に緩やかに下りながら、石畳の町がずっと続いていた。
城に住む人々は、天使と呼ばれていた。不可思議の力をもち、その叡智で街の人々に恩恵をもたらすこともしばしばあった。
人々は天使の庇護のもと、地上のような争いもなく、平和に暮らしていた。
しかし、天使の城の膝元であるその街にも、やはり表と裏がある。
昼間は、石畳の通りには店が開かれ、買い物をする女たちや子供たちの声が賑やかに響く。広くもない緩やかな下り坂の通りは一層狭く感じられるほどだが、夜になると様相は一変する。
得体のしれぬ者たちが暗躍し、不気味な影たちが音も無く通りを横切る。
表の通りでもそんな危険になるのに、ましてや裏通りともなれば、何が起こっても不思議ではなかった。
その、夜の裏通りを平然と歩いている者がいた。
細身の長身を黒いフードつきマントですっぽり覆い、足音もさせず歩くその様は、夜の住人のようにも思えた。
シルエットで男だとわかる。
フードの男はふいに足を止め、暗い裏通りの、さらに黒く沈む路地の奥をじっと見つめた。
「そこはやめときな。何が潜んでるか知れたもんじゃねえぜ…」
しわがれた声が呟くように通り過ぎる。
男はちらりとそちらに目を向け、振り返らぬ相手に礼を言うように少し頭を傾けた。
そして、するりとその闇に身をすべりこませた。
夜の住人でさえ足を踏み入れようとはしない裏通りの最深部。
ねっとりとからみつくような闇が手足の自由を奪っていく。
石畳を走る小さな足は傷だらけになり、一足進むごとに激痛が走る。それでも前へ前へと進むのは迫る恐怖から逃れたいがためだった。
まだ幼い。５、６歳の、少年と呼ぶにも幼すぎる子供だ。
この国では珍しい漆黒の髪と、金粉を散らしたような褐色の肌、月夜の蒼さを思わせる瞳。幼いながらも端正な美しい容貌をしていた。
あと十数年もすれば、女たちが目の色を変えるほどの美貌の青年になるだろう。
そして、子供の背には小さな黒い翼があった。まだ自分の身体を支えて飛ぶこともかなわぬ小さなそれは、よく見れば片方がダラリと垂れ下がり、子供が走るのにあわせてパタリパタリと浮き沈みしている。
事故かそれとも故意か判然としなかった。
「はあ…はあ…」
子供の息にヒューヒューという音が混ざっている。器官がやられてきているらしい。
後ろからばたばたという足音が聞こえ、子供の身体がビクリと跳ね上がった。
「おい、そのへんもう一度見てみろ！」
「子供の足だ。そう遠くへは行けないはずだが」
「飛べないようにしてある。近くに隠れているはずだ！とにかく早く捕まえてお館さまにお持ちせねば、俺たちの命がないぞ」
苛立ちを含んだ低い声が交わされる。それは、すぐそばまで迫っていた。
もう逃げ切れないと絶望が襲い掛かる。
「…あ…」
あまりの恐怖に子供の口から声が漏れそうになった、そのとき。
「し！静かに。声を出してはいけない」
あたたかな腕が子供を抱きとめ、しっとりとした低い男の声が上から落ちてきた。その静かな声の主を振り仰いだが、眩しい光に思わずぎゅっと目をつむった。
子供を長いマントの中に隠し、抱き上げた男はスイと反転すると、いま来た道を悠然と歩き始めた。
「おい、そこの！」
後ろから、しわがれただみ声が呼び止めた。
腕の中の子供がぎゅっと身体を硬直させる。
「……」
男は声を出さず立ち止まり、ゆっくりと顔だけを後ろに向けた。フードに隠された相貌はまったく見えない。だみ声の男はそれ以上近寄ってこようとはしなかった。こんなところを平然と歩く者にうかつに近づけばどうなるかくらいよく解っているからだ。
低く唸るように訊く。
「子供を見なかったか。黒い…子供だ」
「……」
フードの頭が少し傾げられて、ゆっくりと横に振られる。
「そうか…」
だみ声の男は闇の中に沈み込んでいくように消えた。
それを確かめると、男はまた何事もなかったかのように歩き出した。
月光が冴え渡る空の下、街は闇の中に暗く沈みこんでいる。
天をさすような塔が立ち並ぶ城の、玉石の壁は月の光を受けて蒼く輝いていた。
すべるように飛ぶ巨大な鳥…否、翼人の影が白い石の壁に影を映した。
翼人は、その城の上階に位置する一郭のテラスに舞い降りた。
半円形のそこは壁と同じく白い玉石で造られ、美しい彫刻を施された手摺がぐるりを囲んでいる。十人や二十人は軽く収容できるスペースがあった。
全面ガラス張りの窓、その隅に設けられた出入り口から中へ入った。
「ただいま」
言いながらフードをはねのける。長い濡れ羽色の髪がさらりと揺れた。
白磁の陶器を思わせる肌、切れ長の涼やかな目元と、高くすっと通った鼻梁。唇はやや薄く、今はきりりと引き結ばれていた。
「ガブリエル様！一体どこへ行って…」
部屋の奥から憤然としたように出てきた金茶色の髪の天使は、主の腕に抱えられている黒い子供に釘付けになった。
「また、どこで…」
「街だ」
そう言って、ガブリエルと呼ばれた男は、そっと子供をソファに座らせた。
明かりの下で改めて子供を見た二人の天使は、体中につけられた痣や傷に眉根を寄せた。
この子供がどんな虐待を受けてきたのか、容易に想像がついた。そして不自然に垂れ下がった片方の翼を見てますます眉間のしわを深くした。
「むごいことをする…」
それが人為的なものであると判断したらしい。
「ローティス、すまんがヨウを呼んでおいてくれ。俺はとりあえずこいつを風呂に…」
そう言った途端、子供はおびえたようにビクリと身体を震わせた。
ガブリエルは思わず苦い吐息を洩らした。
「……。成る程。…だが、そんな汚れたままでは傷の手当てもできん。お前、自分で身体を清められるか？」
片膝ついてまっすぐに自分を見る男の顔を、子供はおずおずと見つめ返した。
先刻、あの恐怖から救い出してくれたとき、眩しくて見れなかったひと。今はあの強い光もなくて彼の相貌がはっきりと見て取れた。
とても綺麗だと思った。
「はい」
子供はしっかりした口調で言った。
老医は苦虫を噛み潰したようにその折られた翼を見ている。
「よくもこんな酷いことができるものだ」
黒い翼に黒い髪、金褐色の肌という世にも珍しい色の子供を見て唖然としていたが、折られた翼を見るや否や怒り始め、先刻から誰に言うともなく手当てが終わるまでぶつぶつ言っていた。
医者は子供の翼の付け根に手をあて、しばらく集中するように目を閉じていた。その手から金色の光が出ている。
垂れ下がっていた黒い小さな翼が少しずつ歪みを戻していく。
医者の手がふっと離れた。
ガブリエルは老医師に訊ねた。
「どうだ？元に戻せそうか？」
「うむ。まだ骨もやわらかい時期だったのが幸いしたな。あとは坊主しだいじゃな。しかし、多少、飛行の訓練はしたほうが良かろうな」
子供は大人しくソファに座って医師とガブリエルを見つめている。
風呂に入って泥を落とした子供が、与えられた衣服をつけて出てきたときにはさすがのガブリエルも仰天した。
たまに、城の外で翼人が生まれることがあるが、これは間違っても街で生まれたのでもなければ、そこで育ってきた者でもない。
どういう経緯でか知らないが、あの裏通りに住む得体の知れないものに捕らわれていたのだろう。
「ま、今日のところはこんなもんじゃろ。今夜はぐっすり眠ることじゃな」
「ありがとう、ございました…」
子供の礼に、老医師はにっこり笑い、治療道具の入った鞄を持ち上げた。
「遅くにすまなかったな、ヨウ。とりあえずこのことは内密にしておいてくれ。何か理由がありそうだからな」
「わかっておる。…しかし、お前さんの夜のお散歩もほどほどにな。ま、もっとも、人間だろうが妖魔だろうが、滅多なことではお前さんに傷一つつけることもかなわんだろうがな」
老医師の言うのにガブリエルは苦笑して応えた。
「買いかぶってもらっても困るが。出歩くときは気をつけるとしよう」
「うむ」
そして老医師は部屋を出て行った。
ローティスはほっと一息ついて、にっこり笑った。
「やれやれ。一安心ですね。この子の寝床は向こうの部屋に用意しておきましたから」
「サンキュ。ぼうず、ローティスに部屋へ案内してもらえ。お、ミシロ、起こしてしまったか」
見れば、ガブリエルの足元に真っ白い猫が居て、主を見上げてニャアと鳴いた。
子供は始めて見る動物に仰天している。その様子を見てガブリエルは笑った。
「猫を見るのは初めてか。まあ、確かにこの大陸にはこういう者達はおらんからな」
喉元を撫でられてゴロゴロと喉を鳴らすミシロをひょいと抱き上げ、ソファに座っている子供の膝上に乗せた。
ますます身体を硬くする子供に笑いながら、
「まあそう怖がらずに触ってみるがいい」
そう言われて、おっかなびっくり小さな手をそっと白猫の背中に置いた。ミシロは左右の色が違う目で子供を見つめている。
初めて触った猫は、やわらかく、そしてとても暖かかった。
ミシロがざらざらした舌で子供の手をぺろっと舐めた。
はじめましての挨拶はすんだようだ。
「…ガブリエル様はまだお休みにはならないのですか？」
ローティスは少し心配げな顔で主に問うた。ガブリエルは気にするなというように手をヒラヒラさせると執務室へ入っていく。そして、あ、と呟いて振り返った。
「ミシロ、今日はその子と一緒に寝ておあげ」
「ニャアオ」
主の言葉に快諾の意を表した白猫は、子供の膝からポンと飛び降りると、ついて来いというように寝室に向かった。
「……」
困ったように２人の天使を見つめる子供に、ローティスが笑って頷いた。
子供はソファから降りると猫の後を追う。そして、用意された部屋に入る前に、ちょっと振り返り、黒髪の天使を見つめた。
「…。おやすみ、ぼうず」
ガブリエルは執務室の戸口で子供に軽く微笑むと、中へ入っていった。
「……」
ローティスは主を見送り、閉められた扉を見てそっとため息をついたが、自分を見上げている子供に気づいてにこりと笑った。
「おやすみ。ミシロが待ってるよ」
そう言ってローティスも自室に入っていった。
子供は扉を閉め、部屋を見渡した。
大きな窓から月明かりが入っている。見えるのは青い夜の空と月だけ。
部屋には大きな天蓋つきのベッドが一つと脇にランプの乗ったテーブルが置いてある。
角に大小の箪笥が並んで置かれてあった。
扉はもう一つあってその扉にはしっかりと二重の鍵がかけられている。
ローティスの部屋につながるのだろうか？
子供は鍵をそっとはずし、扉を開けてみた。
外は廊下のようだった。天井があるのかどうか、暗くて見えない。しんと静まり返り、燭台が一定区間あけて連なり、炎がゆらゆらと揺れている。
両端は暗くて見えないが、この部屋の隣にも部屋があるようだった。向かいは壁で、その壁にも一定に燭台が置かれてある。
「………」
子供は扉を閉め、鍵を元のようにかけた。
入ってきた扉はガブリエルのいる執務室につながっているのだ。
そう思うと、少し安心する。会って間もないというのに不思議なことだった。
だから、その扉には鍵はかけずにおいた。
白猫がベッドにちょこんと座っている。
子供がベッドに這い上がり毛布にもぐりこむと、猫も一緒に入ってきて子供の胸元に寝そべった。
「おやすみ、ミシロ…」
白猫はまるで「安心なさい」とでもいうかのように子供の手の上に自分の前足を乗せて眼を閉じた。
とても温かかった。
眩しい光にふっと目が覚めた。
何故こんなに明るいのか不思議だった。
しばらくぼんやりと上を眺め、おもむろに跳ね起きる。
（お館さまに叱られてしまう…っ！）
恐怖に冷や汗がどっと吹き出した。
「ニャア」
傍で猫が鳴いた。ビクリとして振り返る。
「あ…」
向き直って部屋を見渡し…
思い出した。
昨日、美しいひとに助けてもらったこと。優しい老医師に怪我の手当てをしてもらったこと。そして、やさしい白猫と一緒に眠ったこと…。
ミシロは長い尾で子供の腕をふわっと撫でるとベッドから飛び降りた。
「ぼうず、起きたのか？」
静かな声が戸口でした。ガブリエルが衣服を持って立っている。
「あ…」
慌ててベッドから降りて２、３歩進んだところでよろけた子供をガブリエルの手が支えた。
「ご、ごめんなさ…」
か細い声で謝るのを制し、ガブリエルは子供の額に指で触れた。
「…。やはり熱が出たか。ヨウから薬を預かっている。今日は一日寝ていろ」
「でも…」
「ん？」
ガブリエルが問うように子供を見つめる。子供は不安に震えながら訊いた。
「あそこから…お館様が連れ戻しに来るかもしれません…。僕…僕は、いつあそこへ戻されるんですか…？」
まるで、期待はさせないでくれと言わんばかりの言葉にガブリエルは苦笑した。
「…お前はあそこに戻りたいのか？」
「いいえ…っ！」
反射的に頭を振ってまた眩暈を起こす。
ガブリエルは一つ溜息を落とすと、震える子供を抱え上げ、ベッドに運んだ。
そして、静かな低い声で告げる。
「いいか、ぼうず。確かにお前をこのままここへ置いておくわけにはいかない。しかし、お前をあそこに放り込んだ者と、お前を捕らえていた者をこのまま放置しているわけにはいかん。そのへんを取り締まるのが俺の仕事だからな」
言って苦笑する。
「逆にいえば、お前があんなところに放り込まれたのは俺の落ち度でもある。怖い思いをさせてすまなかったな」
ガブリエルの謝罪に子供は不思議そうに首を傾げた。
その様子に黒髪の天使は淡く笑った。
「…だから、お前はもうあそこに戻る必要はないんだ。処遇はそれからだ。ま、とりあえず食事を終えたら寝ていろ。何かあれば呼べ。今日は出かける予定はないから向こうの部屋にいる。…あ、お前、名はなんと言う？」
子供の少し安心した顔を見届けて、部屋を出かけたガブリエルは、はたと気づいたように振り返った。
子供ははにかみながら言った。
「…ソウマ」
