北の子供〜なれそめ編〜
―――反乱天使 挿話 ２―――
その大陸の北は峨々たる山脈が連なり、頂には溶けることのない雪が覆い被さっている。南の樹海と共に、この北の山脈から採れる産物――玉や薬草、毛皮など――もキャラバンによって街へともたらされていた。
だが、人間が足を踏み入れることができるのは、山脈の中腹までであった。そこから先はいかに進もうとしても、まるで魔法に掛かったように元の位置に戻ってしまう。
山脈の”上” は、人外の者が守護する地だった。
彼らの国で 【北の次元国境】 と呼ばれるその地は、大陸最第一の要衝である。
この空間に存する次元口――つまり別次元への出入り口である――は十や二十ではきかない。それはさまざまな世界に繋がっており、 『門』 を造らなければ様々なモノが流入して来るのだ。
入って来るのは良いものばかりではない。
次元国境の警備とは、その数十ある 『次元門』 の警備のことであった。
硬玉で作られたその城は山脈の最高峰に鎮座していた。
城といっても華美な装飾は全く無い。見張りの塔が四方を睨み、城のぐるりを囲む塀は高く、堅固であった。その、塀の上を歩哨が見回りのために行き来する。
城は武骨な造りで実用一辺倒。そして、そこに駐屯するのはこれまた勤倹尚武の気風高い、城国最強の精鋭部隊アクラ騎士団である。
前総帥の退任に際し、現総帥含む騎士団員全員が監視役会議に抗議し、結果、この北の国境へ封じられた。
人間界の時間の早さに比べればゆったりとした時間の流れだが、それでも、あれから二十年近い月日が経っていた。
その日、城の最上階に位置する 『開かずの間』 の扉が密やかに開かれた。
かの人から、緊急を要する場合のみ使用するよう言われていた扉。
（理由を知れば、お怒りになるかもしれないな…）
彼はこっそりと苦笑を洩らした。
送り出す者へ一言、二言ことばをかける。旅発つ者は彼に頷き返し扉をくぐった。
城主でさえ初めて見たその部屋…正確には扉の向こうは、石畳の小路が延び、その先に賑やかな人々の声が響く、ゆるやかな坂の通りが横たわっていた。
彼は、一瞬にしてそこが何処であるのか理解した。
あの方は、この部屋がどこに繋がるのかご存知だったのだ。
おそらく、この城に幾つも存在する 『開かずの間』 の行き先すべてを…。
御しがたいほどの郷愁の念とともに鮮やかに蘇ったのは、懐かしいひとの秀麗な顔だった。
あの日、別れ際に 「そう遠くもないさ」 と意味深に笑ったあの…。
「…まったく…貴方ってひとは…」
彼はくつくつと笑い出した。
※
城国の巨大な門は、人間界との国境を意味する。
その日、白銀の城が夕暮れに紅く染まるころ、門を叩く者があった。
「ごめんくださーい！ 開けてくださーい！」
えらくよく透る子供の声が、門を叩く音と共に響いた。
門番の老人は、また人間が悪戯でもしているのだろうと気にもとめなかった。しかし、しつこく繰り返される呼びかけに、とうとう物見の穴から外を窺い見た。
ボロボロの服を着た十一、二歳の子供が門を見上げている。
その背には真っ白な翼があった。
「ありがとうございます。あのまま街に戻ったらまた襲われるところでした」
少年は泥で汚れた顔をほころばせ、ふるまわれた粥の椀を持ったままペコリと頭を下げた。
金髪の巻き毛に緑の瞳の、愛らしい顔立ちの少年だった。歳は十三と言ったが幼く見える。
これでは街でかどわかされそうになっても不思議ではなかった。
「お前さん、どっから来たんだね」
門番が呆れながらそう聞けば、
「えと、北の山です」
「山脈の方かね！ よくもまあ、一人で無事にここまで来れたもんだ！」
その返答に門番は驚き、さて、と呟いた。
「お前さんをここに置くわけにはいかんのだが…」
「はい。私はガブリエル執行官にお会いしたく参りました。ち…知人のおじさんがガブリエル様の補佐としてお勤めするようにと」
「えっ！ 執行官様の…？」
門番はひどく困ったような顔をした。
「何か…？」
「…いや、どうかな…ガブリエル執行官様には既に補佐官がいるはずだが…。どれ、ちょっと取次ぎをお願いしてみよう」
門番は呟きながら、よっこらしょと腰をあげた。
少年はその背中を見送り、考え込んだ。
ガブリエル執行官以外の者に『彼』の名を告げぬこと――父母が誰であるのか知られぬこと。住所は曖昧に告げること。
そして……
「これは、セクラム様。わざわざこんな所までおいで下さいまして…」
「よい。子供が門の外から来たそうだが」
「はい。こちらに」
門番がドアを開け、セクラム執行官を案内したときには、座っていたはずの子供は忽然と姿を消していた。
（たいへんたいへんたいへん！）
少年は叫び出したい衝動をこらえ、闇雲に走っていた。
出発の前に厳重に言い付かったこと。
それは、 「ガブリエル執行官に会う前に、セクラム執行官に掴まらないこと」 だった。
何故なのかは聞いてない。
ただ、くれぐれも掴まるなと強く言い含められた。掴まりそうになったら全身全霊でガブリエル執行官を呼べ、と。
それでどうなるのか、それも聞いてない。
しばらく走って、あたりを見回す。
天井は高く、艶やかな石の廊下が伸び、幾つもの扉が並んでいる。一定の間隔をあけて置かれた飾り蜀台が連なり、何本もの柱には彫刻が施されていた。
「…わあ…」
今まで少年が住んでいた所も石造りではあったが、飾り気は一つもなかったため、ずいぶんと華やかな印象を受けた。
ふいに、前方から人の声がし、慌てて柱の陰に身を隠す。
白いローブのような着物を来た男と女が笑いながら通り過ぎる。
「………」
少年は思わず自分のボロボロの服装を見下ろした。
出てくるときには多少マシだった服は、街を通り過ぎるまでに泥まみれになってしまった。
人間を傷つけてはいけないと、剣は持たせてもらえなかった。だから素手で乗り切るしかなかったのだ。
今ごろ自分が殴り飛ばし蹴り飛ばしてきた男たちは、意識を取り戻してブツブツ文句を言っていることだろう。
少年はふう、と溜息をついた。
（とにかくガブリエル様を探そう）
隠れていた柱から出るとキョロキョロとあたりを見回す。
「…！」
視線の先、陽光降り注ぐ中庭が見えた。
「子供は見つかったか！」
「いえ、それがどこにも…」
「えい！ まったく子供一人見つけられんとは！ 問い質さねばならんことがある！ 一刻も早く見つけ出せ！」
「は！」
門番の部屋は常になく慌しく、セクラム執行官の部下達が出たり入ったりした。
（…やれやれ…）
当の老門番は大人しく部屋の隅に座ってその様子を眺めていた。
子供の姿が消えていたとき、正直ほっとした。
ガブリエル執行官を訪ねてきた者を、よりにもよって、この執行官に渡してしまったらどうなるかわかったものではない。
老人はあの子供がガブリエルを訪ねて来たのだとは告げていないが、「北」 から来訪したのだと言ったとき、セクラムの片眉がピクリと跳ね上がったのを見逃さなかった。
セクラムにとって 「北」 はアクラ騎士団を意味する。そしてそれは宿敵ガブリエルに直結するのだ。
（ぼうず、逃げろよ…）
老人は大人しげな表情の裏で、密かに少年にエールを送った。
連峰の冷たい風の中を自由に飛び回ってきた少年にとって、何の抵抗もない空は拍子抜けするほどだった。
だが、行けども行けども上は果てしなく白銀の城の巨大さを身にしみて感じた。
（早くガブリエル様に会わなければ…！）
少年は焦燥にかられ、必死で上へと羽ばたく。
「待て、お前！ どこへ行く！」
下方から誰何の声がし、数人の衛兵が剣を引き抜いて向かってくるのが目に入った。
（――っ！）
掴まってたまるものかと、少年は更に加速させた。
執務室の巨大な扉が開き、小さな天使が書類を抱えて入ってきた。
「何か、下でセクラム…執行官の部下が大騒ぎをしていたぞ」
「は？」
「また何かよからぬことでも…？」
「下らないことの間違いだろ？」
辛辣な返答に書類を抱えた天使はいやいや、と手を振る。
「何でも、北から来た子供を追い回してるんだとか」
「北？」
５人のチビ天使が首を捻る中、黒髪のチビ天使は何を思ったのか、
「ちょっと見てくる」
執務室を出て行った。
「待たんか！」
「嫌ですっ！」
上へと羽ばたきながら交わされる怒鳴り声。
「くそっ！ あの子供の翼はどうなってるんだ！」
衛兵の一人が毒ずいた。
全力を出しているのに、上を飛ぶ子供に追いつけないのだ。
「何をしている！ 早く捕らえろ！」
下から上官の怒鳴り声が追いかけて来た。
（だれか助けて…っ！ 父上！）
少年は半ベソでがむしゃらに飛んだ。
「キミ！」
不意にかかった声に思わず振り向く。
小さな、金褐色の肌の天使が飛び込んで来た。
「あっ…！」
減速したのを幸い、追ってきた衛兵達は少年と小さな天使を取り囲んだ。
「あ…」
「…北から来た子だね？」
絶望に青ざめる少年の傍らから、小さな声が聞こえた。
その、あまりにも落ち着き払った声音に、目をぱちくりさせて見つめ返す。
彼の深い藍色の瞳がきらめいて、優しく細められていた。
「はい」
「キミは、お父さんにそっくりだね！」
小さな黒い天使は嬉しそうに笑った。
「……！」
驚きに目を見開いたときだった。
「掴まえたか！ まったくてこずらせおって！」
神経質そうな怒鳴り声が聞こえ、兵達が左右に分かれると罪人を捕獲するためのロープを手にした男が現れた。だが、子供の傍にいる小さな天使を見た途端、嫌そうな顔をした。
「…ガブリエルの補佐官が何故ここにいる」
「ご機嫌麗しゅう、セクラム様。何故ここにとは異な質問でございますね。私は彼を迎えに来たのですが」
「…迎えだと？」
「はい。ガブリエル様の補佐どもは、なにぶん、このような姿ですから６人いたとて手がたりません。我々、相談いたしまして新しい補佐官を入れて下さるようお願いしたのです」
「…そんなことは聞いておらんぞ」
「おや？ 別にセクラム様にご報告する必要はないかと思われますが？ 手がたりぬのは、セクラム様の補佐官ではなく、わが主にお仕えする者です」
やんわりと微笑みながら、堂々と執行官に対峙する小さな天使を、衛兵は勿論、傍らの少年も唖然として見つめていた。
セクラムは忌々しげに鼻を鳴らし、
「そちらの事情は判った。だが、しかるべき入国の手続きの前に逃げ出すような不審人物は取り調べなくてはならん。妨害するなら貴様も一緒に捕らえるぞ」
これみよがしにロープを伸ばしながら二人に近づいてきた。
「……」
少年は震え、思わず傍らの小さな天使の衣を握った。
「大丈夫だよ。ほら」
補佐官が微笑みながら上を見上げた時だった。
「セクラム。俺の補佐官を捕らえようとはどういう了見だ？」
頭上から、白銀の光とともに低くしっとりとした声が落ちてきた。
美しいひとだとは聞いていた。城国最強の戦士だとも。
だが、目の前の人物は少年の想像をはるかに越えたひとだった。
美しさも、輝きも、圧倒されるような 『気』 の強さも。
「………」
ひたすら唖然と見つめる少年に苦笑を洩らした天使は、その低い静かな声音で名を訊いた。
「わ、わたくしは、ジュリアスと申します！ あの、突然、申し訳ございません。入国の手続きが必要だとは聞いておりませんでした。ただ、あの…父から、ガブリエル様にお会いする前にセクラム執行官には会うなと言われましたので、思わず逃げてしまいました…」
「……」
ガブリエルの後ろに控えていた六人衆が一斉に「さもありなん」と頷いた。
「…で？ お前は父上に俺に会えと言われて来たのか？」
「はい！ 父が、立派な人材になるように、ガブリエル様のもとでしっかり修行して来いと申しました！」
キラキラと目を輝かす少年を見つめたガブリエルは、何となく、一抹の不安を覚えながら（恐る恐る）訊ねた。
「…お前の父上の名は…？」
「はい！ ローティスと申します！」
「………。」
ガブリエルの意識が一瞬、遠のいた。
――否。知っていた。
彼が妻を娶ったことも、子供が産まれたことも。つい先日、聞いたのだ。
先 ・ 日、だ。
「立派な人材になるように修行して来い」ではなく、「立派な人材であるように見張っていろ」の間違いだろう…
黒髪の執行官は深い深い溜息をついた。
（どうされたんだろう…？）
沈黙してしまった執行官の向かいで、少年は所在なげにもじもじしていた。
ガブリエルはジュリアスの向かいに腰掛けたまま、しばらく頭を抱えていたが、おもむろに立ち上がると、
「ちょっと、そこで待っていろ」
そう言いおいて、執務室へと入って行った。
不安げな顔のジュリアス少年と六人衆が待つことしばし。
「ローティス！」
突然、ガブリエルの大声と、次いで誰かの大爆笑が聞こえてきた。
「―――っ？」
７人の目が執務室の扉に集中した。
「――おい、執務室に客人なんていたか？」
チビ天使の一人が隣に問う。
「いや？ 見てないぞ？ ――っていうか、誰もいなかったはずだぞ？」
「……いつのまに？」
「どこから？」
６人分の疑惑の眼差しが執務室の扉に注がれたその時、ガチャリと錠が外される音がした。
「お前達、ちょっと入ってこい」
すさまじく憮然とした顔のガブリエルが執務室の扉から覗いた。
チビ天使の後を少年が続く。
中に入ると、何時の間に入ってきたのか本棚の前に中年の男が立っていた。
「父上！」
「ローティス様！」
少年の声と、小さな黒天使の声が重なる。
ジュリアスは驚いて黒い天使に目を向けた。
「やあ」
目に大爆笑の余韻を残したまま、彼は微笑んだ。
その傍に憮然としたままのガブリエルが腕組みをして、かつて自分の右腕だった男を睨んでいる。
「おや！ なんだい、ソウマ。こんな姿になって！ 君も相当なやんちゃだね！」
ガブリエルに睨まれていてもへいちゃらな様子で、ローティスは朗らかに笑った。
恐縮したように一礼した黒天使は、珍しく頬を赤らめていた。
「…ローティス。これは一体どういうことなんだ」
恐ろしく低い声が吐き出され、ジュリアスなどは思わずビクリと身を竦ませたが、声を掛けられた当の本人はにこにこ笑ったまま首を傾げる。
「どうとは？」
「こんな所に息子を放り込むなんてどういうつもりだと訊いてるんだ」
「どうもこうも。かつて私がしていた仕事を息子に託したところで何の不思議がありますか？ …尤も、今は人手が増えているようで重畳」
あははと笑った男に 「笑っている場合か！」 と喝を入れたが、呆然としたような少年の声にふと口をつぐむ。
「…父上は、ガブリエル様の補佐官だったのですか…？」
「そうだよ。…おや、言ってなかったかい？」
「ローティス…ッ！」
その後の、執務室での騒ぎと混乱は推して知るべし。
※※※
「…まったく、こんな通路があるならもっと早く教えて下さればよかったのに」
「そうもいくか」
苦笑する男にガブリエルは憮然とする。
別れた時は輝くような金茶の髪に、今は白いものが混じり始めている。
城から出たとき、この男の上に 『時間』 の枷がはめられたのだと、今更ながら思う。
「――まあ、いい。ここは開けておく。好きなときに来い」
ガブリエルは仕方なさそうに肩をすくめた。
ローティスは了解したように、ちょいと頭を傾け、ずらされた本棚の後ろへ入り込んだ。
「ガブリエル様、いつも言っておりますが、くれぐれも 「常識的」 にお願い致しますね」
「お前な…」
最後に執行官補佐の顔になったローティスは、憮然とした上官の顔を見て吹き出した。
そして、楽しげに笑いながら次元門の向こうへ帰って行った。
了
