ネタばれ警報発令！！
「虚空の鑑」の本編を読まれてない方はご注意ください。
桜夢 ――虚空の鑑 外伝――
桜の花びらが窓から入ってきた。
ハナは掃除機を止め、花びらを指でつまんだ。近くの公園から飛んできたものだろうか。小さな一片の花びらは、薄く儚げで―――
いくつもの記憶の断片を抱えたまま、春が過ぎようとしている。
花びらが留まったのは、小さな木箱の上。それは、彼女とあちらの世界をつなぐ、たった一つの記憶の依代ともいえた。
ハナは木箱の蓋をそっとあけた。
極上の布は、そこにあったものの形をかろうじて留めており、それはまるで自分自身の記憶のようにも思え、溜息をつかずにはいられなかった。彼女はふと、その布の香りを嗅いでみた。
花と果実のかすかな香りが鼻腔をくすぐる。瞬間、脳裏をよぎったのは青銀の輝き―――
「……あっ……！」
§§§
神祇庁長官・青慧のすすめで神殿に逗留することになったハナは、ホウライヌへ渡るためにどうすればいいのか悶々と悩んでいた。が、所詮は机上の空論。ほどなく匙を投げた。
「ハナ様」
溜息をつきながら窓の外を眺めているハナの背後から声が聞こえ、仰天して振り向いた先に蒼い法衣を纏った青慧が微笑みながら立っていた。
声をあげそうになる彼女を制し、神祇長官は腕にかけていた藍色の衣を差し出す。
「息抜きに城下町においでになってみては？ 残念ながら私は神殿から出るわけにいきませんので、道案内を用意しましたから」
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、そう言った。
ハナに何の否やがあったろう。
服を着替え、髪を結いあげると、いかにも貴族の娘のお忍び風になった。ふんわりとした生地の披肩を巻くと、小さなドラゴンはそこへすっぽりとおさまった。
青慧に案内されてきた神殿の裏門は、半円を描くような小道が森の中に続き、片側は崖になっている。彼が言うには、この小道は森の途中で三方に分かれているらしい。一本は隣国へ向かう道で、山脈の中ほどに守人のいる山門があり、一本は山脈を沿うように湖へ向かい、ここもまた守人が守る水門がある。そして、残りの一本は城下町へと向かい、途中から大通りに合流して海門へと伸びる。
裏門の外で待っていたのは地味な色合いの長袍を着た、背の高い男だった。
「ではハナ様。彼が護衛兼案内役ですので、はぐれないように。それと、晩餐までにはお戻りくださいね。でないと、うちの料理長がヘソを曲げますからね」
にこにこ笑いながら言った青慧は、男に声をかけた。
「ではくれぐれもお嬢様を、よろしくお願いしますね。青蓮」
「承知した」
振り向いた男を見たとき、ハナはぽかんと口をあけた。
「ちょ……っ！ 青慧さん？！ あっ」
どういうことかと振り向いたが、神祇長官はすでに裏の戸口に手をかけ、
「いってらっしゃい」
呆然としている彼女に、ひらひらと手を振って神殿の中に消えてしまった。
「では、行こうか。お嬢様」
セイレンはにやりと笑って彼女を促す。
「ちょっ……ちょっと！ 貴方、こんなとこでナニしてんですか、参謀……っっ！」
ハナの絶叫は男の大きな手で塞がれた。
「大きな声を出すな。私もお忍び、ってやつだ。セイレンと呼べ」
髪の色こそ黒く染めて後ろで束ねられているが、その硬質な美貌と、強い光を放つ青銀の瞳の持ち主といえば、水華蓮の重責を負う宰相その人に他ならない。
呆れ果ててものも言えないハナの腕を、彼はいくぶん楽しげに引っ張ると歩き出した。
鬱蒼と茂る森は、昼間でも薄暗い。
青年の背で束ねられた髪が揺れる。黒く染められているのに、青い輝きが見えるのは光の加減だろうか？ 腰に吊るされている長剣は、拵えこそ地味だが相当の腕力がなければ扱いかねるようなものだ。上等な衣を纏っている姿しか見たことがなかったが、こういうシンプルな着物を着ると、いかに均整のとれた身体かがよくわかる。
彼女の視線に気づいたのか、「なんだ？」と振り向く。
「あの……参……じゃなくて、セイレンどの。仕事はいいんですか？」
「ああ。補佐に任せてきた。……どのは不要だ」
「はあ。……それはまた……お気の毒に……」
ぼそりと呟いた彼女の言葉が聞こえたのか、セイレンは楽しげな笑い声をあげた。
首都・華蓮――扇形に広がるこの街は指折りの国際都市である。
立ち並ぶ店々、ごったがえす人々の様子は、ハナの世界の繁華街と変わらない。だが、異国情緒あふれる街の様子は、心が浮き立つような楽しさがある。
「うわあ、すごい……あ！ 屋台が出てる！」
通りの脇に並ぶ屋台を見つけたハナは、人の流れを泳ぐように横切っていく。
立ち並ぶ屋台は、とれたての魚を焼いたもの、面包に肉や野菜をはさんだものや麺類、飴、揚げ菓子などなど多彩である。それらの店を楽しそうにのぞいて回るハナに、セイレンは笑いながら問うた。
「何か食べるか？」
「でもお金持ってないです」
「奢ろう」
「え！ 本当？！ じゃあ、じゃあ、あれがいいです！」
ハナが指さしたのは、たれをつけて焼いた団子を売っている屋台だった。
「おいし〜」
嬉しそうに団子を頬張るハナの横で、セイレンはその隣にあった干物を焼いている屋台で烏賊のようなものと酒を頼んでいた。
「綺麗なあんちゃん、その酒は結構きついぜ？」
店の親父がからかい調子で言うのに、セイレンはにやりと笑っただけで、くいとあおった。店の親父が「おっ」と声をあげる。
「……ふむ。なかなかいける。親父、もう一杯」
酒の椀を一飲みで空にした男は、けろりとして呟くとずいと椀を差し出した。
「やるねえ」
嬉しそうに笑った屋台の親父は気前よく酒を注いでやると、おまけだと言って干物の焼き物をもう一本つけた。
ハナは目をぱちくりさせてその様子を眺めていた。王城にいる宰相の姿からは想像もできないほど、世馴れた感じがするのは気のせいだろうか？
「まあ、見て！ 素敵なひと」
「船乗りかしら？」
行き交う人々の中からそんな声も聞こえてくる――背の高い美貌の青年に、後ろ髪をひかれる様子で通り過ぎていくのは美しく着飾った婦人たちばかりではない。身分ある紳士までもがセイレンを値踏みするように眺めていくのだ。
彼は変装には向かないひとだ、そんなことをぼんやり思っていると、
「ハナ」
セイレンはちょいちょいと指を曲げて彼女を呼び、隣に座るよう示した。屋台の後方は粗末ながら椅子と卓が並べられ、一服できるようになっている。卓にはちらほらと人が座って談笑していた。通りを歩く人々の波は引きも切らず、客寄せの威勢のよい声も聞こえてくる。
「セイレン。こういうとこ、慣れてるんですか？」
「まあな」
至極あっさり肯定した男を、ハナはまじまじと見つめる。普通、宰相なんて職につく人間はこんなところに来ないのではないかと思うのだが……
「……そうか。遠山の金サンとか、そんな感じなのか……」
呟きに不思議そうな顔をした男は小首を傾げてみせた。が、ふいに声を落とす。
「ハナ。海門を見てみるか？」
はっとして顔をあげた彼女の視線を促すように、セイレンは港のほうへ目を移した。遠目に見えるのは威容を誇る守人の城塞。
「はい」
港に向かって歩き出す二人に、屋台の親父が声をかける。
「あんちゃん、ちょっと。……港は気をつけな。今時分は他国から来た柄の悪い連中が多いからな。……まあ、そんなでっけえ剣を持ってるんだから、多少は腕っぷしに自信があるんだろうが……」
「かたじけない」
ハナに気遣って小さな声で忠告する親父に、セイレンはにこりと笑って頷いた。
港に向かうにつれ、屋台の親父が言ったように歩いている人々の様相が違ってきた。早良港に停泊しているのは、外海から海門を通ってきた商船がほとんどである。気の荒い船乗りのこと、喧嘩はひっきりなしに起こっていたようだったが、港に点在する【海門】の詰所の目が光っているためか、大きな騒ぎにはならずにすんでいた。
「……守人の統率力には感心するな……」
低く呟いたセイレンは、おもむろにハナを背後にかばい、剣に手をかけた。
「参……？」
「何の用だ」
セイレンの声に応えるように、数人の船乗りらしき男が二人を囲むように出てくる。
「おーやおや。剣客気取りかい」
「顔に似合わねえ、でっけえ剣をぶらさげてるが、ちゃんと使えんのかい？」
げらげらとあがる笑い声はいずれも酒気を帯びている。彼らの後方には野次馬たちが集まりつつあった。
ハナは、生真面目な宰相の怒りがいつ爆発するかとはらはらしながら見守っていたが、聞こえてきたのはいくぶん楽しげな、挑発の響きを含む声だった。
「無論。気取りではなく、私は剣士であるし、己の姫を守らねばならぬ。そうである以上、使えぬものを持っていたとて意味はあるまい？」
あんたは剣士じゃなくて、この国の宰相だろーっ！
とかいうハナの内心の絶叫は、当然のことながら無視され、案の定、彼の言葉は船乗りたちの神経を逆撫でした。
「そんじゃあ、ご自慢のその剣を使ってみろ！」
「ちょ、ちょっと、参謀長官どの！」
背後のハナに、ちらりと振り返ったその顔といったら――
「姫を守り通した剣士には、当然、姫から褒美がいただけるものだな？」
「はい？」
怪訝そうなハナをよそに、彼は楽しげに笑うと軽くステップを踏み、殴りかかってきた数人の船乗りたち全員を、一蹴りでのしてしまった。
曲芸のような鮮やかな手並みに、唖然としたのはハナだけではない。だが、仲間がやられておとなしく黙っている連中ではなかった。見物していた船乗りたちは、生意気な若造に敵愾心を燃やし剣呑な目を向けてくる。
背にかばわれているハナは知る由もなかったが、これだけの人数に囲まれてなお、セイレンの美貌には不適な笑みが浮かび、黄昏の中で青銀の瞳が輝いている。それがまた彼らの怒りを煽っているのだった。
「どうにもそのツラぁ、ぶん殴ってやらにゃ気が済まねえ……」
「若造、覚悟しろよ！」
一人が怒声を発し、一斉に飛びかかろうとしたときだった。耳をつんざく銅鑼が鳴り響き、その場の動きをとめた。
「何事だ？」
若々しい声が聞こえ、数人の男たちの後ろから颯爽と現れたのは白い長袍を纏った長身の男だった。
「あ、こりゃ、海門の……」
船乗りたちは一様に狼狽し、あっけないほど大人しくなった。野次を飛ばしていた連中も、こそこそと逃げ出していく。
ハナはセイレンの背からそっと覗いてみたが、逆光のために相手の顔を見ることはできなかった。
「事情を説明願おう。……申し訳ありませんが、あなた方にもです」
そうセイレンに言い置いて、白い長袍の男は有無を言わせぬ迫力で船乗りたちの尋問を始める。ほどなく、船乗りたちはすごすごと引き揚げて行った。そして、一緒にいた男たちに何やら指示を出すと、彼はこちらへ歩いてきた。
「……さて。申し遅れました。私は海門の組頭です。あなた方はなぜここに？」
「こちらのご婦人に港の様子を見せに来ただけだ」
セイレンはハナを完全に背に隠し、淡々と言った。
「なるほど。しかし、ここは身分のある方が来られる場所ではありませんよ。海門を通ったからといって、品がいい連中だとは限りませんからね」
「確かに」
セイレンの言葉が終らぬうち、海門の組頭の斬撃が襲い掛かる。が、それは甲高い音を響かせて弾かれた。
いつの間に抜かれたのか、セイレンの長剣が夕日に紅い輝きを放った。
「……何の真似だ？」
「申し訳ない。剣の腕前を見たかった。……どうだろう。少し手合わせ願えないだろうか？」
不機嫌そうな言葉に、組頭の青年は楽しそうにそんなことをいう。
「そろそろ戻らねばならん。相手をしている暇はない」
「じゃあ、さっきの連中のようにさっさと倒していけばいい」
言いながら言葉に溢れているのはまぎれもない【自信】。この男はさきほどの船乗りたちのようにはいくまい。
セイレンは、心配そうに見上げてくるハナに、にこりと笑うと落ち着き払った声で告げる。
「少し下がっていろ。……料理長には、私も一緒に謝ろう」
そんな呑気なことを言ってる場合か、とは思ったが、こうなったら見届けるほかないとハナも心を決める。このひとは『金さん』じゃなくて、『暴れん坊ショーグン』の部類なのだ。
海門の詰所にいた男たちも見物に出てきたが、幸い、さっきの連中とは違って静観するつもりのようだった。
ハナは思わず手を握り合わせる。手合わせといったが、双方れっきとした真剣だ。一瞬が命取りになることは必定である。
「時間がない。こちらからいく」
セイレンが剣をひっさげたまま淡々と告げ、軽く一歩踏み出したとみえた途端、彼の姿が消えた……ように見えた。
「え……？」
誰の呟きだったのか――否、誰もが思わず声を漏らした。
勝負は、一瞬で決した。
唖然とする人々の前、組頭の喉元にはセイレンの切っ先がぴたりと据えられていた。剣を構える暇もありはしない。
「……ま、参った……」
青年は剣を落とし、両手をあげた。セイレンは何の表情も浮かべることなく剣を引き、鞘に戻すとさっさと踵を返し、ハナを迎えにいく。
「すごいな、あんた！ 俺をこんなふうに負かしたのはあんたが初めてだよ！ 名前聞いてもいいかい？」
海門の組頭は興奮したように言ったが、ハナの手を引いて立ち去りかけていた男は、苦笑を返したのみで何も言わず港から去った。
神殿に着くころには日はとっぷりと落ち、森の道は真っ暗だった。
ところどころ、木々の間から落ちる月光があるのみで、足元を照らすには足らなかった。だが、セイレン――ターガナーダの目には、この暗闇でも支障がないらしく、しっかりとした足取りでハナの手を引いている。
彼は、ふと立ち止まった。
「ハナ」
「はい？」
朧な月光が秀麗な面を白く浮かび上がらせ、青銀の目が真っ直ぐこちらを見つめてくる。
「……姫を守り通した剣士に、何を下さるか？」
「え……な、何をって、なにを……？」
唐突な言葉と思いがけない真剣な眼差しに、ハナは狼狽し、何も持ってないと言いかけた言葉は途中で消えてしまう。
困り果てたような顔をした彼女を見つめていたターガナーダは、ふと唇をほころばせ、長身をかがめるとハナの耳元でそっと囁いた。
「では、所望する……しばらく、このままで……」
あたたかな腕が背をまわり、気付いた時にはハナは宰相の腕の中にすっぽりと包まれていた。
鼻孔をくすぐったのは、香木の香りではなく、淡雅な華のような――ひどく懐かしい気がする香りだった。城下でこんな香りを嗅いではいない。これは、この人の香りなのだろうか……？
―――聞きたいことがたくさんあったのに。
海門のことや、組頭とはなんなのかとか、さっきの剣はどうやって繰り出したのかとか、そもそも、なぜ貴方が城下に降りたのかとか………
やさしく暖かな腕に抱きしめられているうちに、頭をめぐっていた言葉はどこかへいってしまったのだった―――。
§§§
「ハナ！ おい！」
揺り起こされ、ハナは目をあけた。
一瞬、どこにいるのか把握できずにいると、呆れたような声が降ってきた。
「こんなことで寝てんなよ。風邪ひくぞ」
「あえ、亮兵……？」
呟き、ハナは体を起こした。どうやら木箱を抱いて寝ていたらしい。
――夢、をみていたのだろうか――？
「買い物につきあえって言ったの、お前だろ？」
「あ、うん。待ってて。用意する」
慌てて立ち上がり、洗面台に向かう。
ふと、腕に触れ――あたたかく逞しい腕の感触を思い出す。そして、青銀の瞳をもつ秀麗な相貌の青年を――
「……参謀長官どの……」
呟き、鏡に映った赤い顔をした自分の姿を見たハナは、慌てて顔を洗ったのだった。
「あ。ＵＦＯ」
買い物袋をぶらさげた青年がぼそりと呟いた。
「ＵＦＯっ？！」
ハナは勢いよく顔をあげ、空を見上げた。
「どこ、亮兵っ？ どこにＵＦＯ？！」
青年の袖を掴んで叫びながら空を探す彼女をちらりと見やり、だが、亮兵は何も応えず上方を見つめていた。
「……？？？」
ハナは青年の横顔を見つめ、彼の視線を追うように目を移す。
どこからか桜の花びらが飛んできた。霞んだような青空にところどころ雲が浮いている。そして、ハナの目に映ったのは、ＵＦＯではなく不思議な形の雲だった。
「あ、竜の雲だ。ねえねえ亮兵。あの雲、竜に見えない？」
「……そうだな」
亮兵の笑い含みの応えに気を良くした彼女は、ＵＦＯ探しはどこへやら、嬉しそうにポケットから携帯電話を出すと、すかさずシャッターを押した。もう一枚、と構えたところで春特有の強い風が通りすぎていく。
「わっぷ……」
ハナが思わず目を閉じ、再び空を見上げた時には、竜の姿はあとかたもなく消えていたのだった。
「あ……消えちゃった……」
がっかりしたように肩を落としたハナの背を軽く叩き、
「この次はもう少し根性があるといいな」
小首を傾げたハナに、にやりと笑ってみせた亮兵は、彼女の髪にとまった桜の花びらを指先でつまむと、ふっと息を吹きかけた。
※
「閣下。かっかー？ もしもーし！？」
彼が青銀の瞳をあげたとき、執務机のむこうから覗き込むようにしている部下の顔があった。
「なんだ、峰牙？」
あいかわらず淡々とした王の応えに、腹心の友であり有能な補佐官である峰牙は盛大に顔をしかめてみせた。
「なんだじゃありませんよ！ 居睡りしてたでしょう、今？！ 俺の報告聞いてました？ 聞いてくれてました？！」
「すまん。もう一度たのむ」
しれっとして悪びれないターガナーダに、ぷりぷりしながらも峰牙は報告を始めた。
「……この件は以上です。あと、ニナル州へ入っていた光麟から報告が届いております。――こちらに」
「うん」
峰牙が差し出した書状を受け取り、静かに目を通していたターガナーダの目に、強い光が浮かび上がった。峰牙は黙って主の言葉を待つ。
「……光麟には、しばらくニナルに留まってもらわねばならないようだ……」
ターガナーダは呟き、明かりの火で書状を燃やした。
さきの一件より、その技量と人柄を買われた光麟は、ローブミンドラ国王・ターガナーダ直属の隠密として各州の実態を探るべく旅に出ている。
彼の報告は一旦、城下の町の長老・バルのもとに届けられ、その後、ひそかに武官長によってターガナーダのもとへ持ち込まれるようになっていた。
そして、ハナの前に身を盾にして命を落としたシュリーマデビイは、始原の竜王によって再び命を与えられ、本来の人の姿となったにも関わらず、以前の小さな碧のドラゴンに変わると光麟にくっついて旅立ってしまった。シュリーマデビイは人目がなければ可憐な人の姿を現し、光麟以外の人間がいる場所ではドラゴンに変じて彼の襟の中に隠れているのだという。
もとより、ターガナーダにシュリーマデビイの自由を奪うつもりなど毛頭ない。彼女が光麟とともにいたいというならそうすればよい。それに、こんな城の中にいるよりは、よほど彼女のためにはいいだろう。
また、ローブミンドラに正王がたって以来、国を覆っていた霧は晴れ、目を見張るほどの速さで復興が進んでいた。人々はターガナーダ王の即位に諸手をあげて喜び、他国もまた門を開いたローブミンドラを歓迎した。だが、国の中にはそれを苦々しく思うものも存在する。それゆえの、隠密行であった。
彼の政が国中に浸透するには、まだまだ長い時間が必要なのだった。
「……傍へ行くには、まだ時間がかかりそうだな……」
「はい？」
主の声が耳に届いたのか、振り向いた部下に、ターガナーダは「何でもない」と手をふった。
――見知らぬ国の巨大な建造物が立ち並ぶ街を、彼女と並んで長身の青年が歩いていた。
その男を、ターガナーダは知っていた。一度だけ、鏡越しにまみえた黒竜王――異界に居るというのに、こちらの空気を震撼させるほどの強大な力を有する、始原の竜王とともに出現した対の竜王である。
黒竜王は、霞のような存在の自分に気づき、深淵を思わせる深い色の瞳をまっすぐこちらに向けた。何をか呟いた彼の言葉に、ハナは驚いたように顔をあげてきょろきょろと探し求める。そんな彼女にほんの少し向けた、その視線の温かさ――突風を予知したように立ち位置を変え、風が運んできた砂ぼこりは、彼らに降りかかる前に散らされてしまった。ハナの髪に触れることを許されたのは、ただ、小さな花びらのみ……。
なにやらむっつりと黙りこんでしまったターガナーダを眺めていた峰牙は、腕組みしてわざとらしく嘆息してみせた。
「心ここにあらずですな、閣下。今日はもう店仕舞いして、どこぞへ遊びに行かれてはどうです？」
「うむ。そうだな。……もう遊びに行った後だがな」
返ってきたのは、いつも通りの淡々とした声で――王の有能な補佐官は、思い切り鼻から息を噴き出したのだった。
おしまい 
